2017年4月29日土曜日

この河は船が遡れるかの?【江戸川奇譚③】

現在の江戸川(流山市 加付近)
前回までのお話は、関八州を得た徳川家が、伊奈忠次に関東の治水を命じ、利根川荒川の分割を構想。更に徳川家が幕府となり江戸が天下の中心となることで利根川東遷の意義に東日本からの物流の目的が加わり・・・・というトコロまででしたが^^;

この記事を書いてると、やたら”付け替え”だの”落とし込み”って言葉が出てまいります^^;

これはこの時代の土木の技術のせいでして、今だったら浚渫(水の底を掘って深くする)というやり方もあるんですが、これがこの時代は難しい。
人件費はタダみたいなものなんですが、全て人力なので水の中をいじくることはあまりしないのですよね。

既存の流れを深く掘り直したりするなら(やってるそばから、水が動いて埋まってゆくので)、それよりも水のないところをワッセワッセと掘って(露天掘り)”付け替えた方が楽”という発想だと思われます。

さて・・・幕府が開府されて落ち着いてくると
関東入府から、幕府開府にわたって考案された忠次の構想がいよいよ実を結び始めます。

この間に関東代官頭は息子”忠治”に引き継がれ(実際は3代目)ているのですが、まさに八面六臂!主な業績だけでも・・・・
【伊奈忠次】
1590年~備前検知(伊豆・武蔵・相模など)
1592年 文禄・慶長の役では大軍を動かすための小荷駄による兵粮の輸送
1594年 千住橋架橋
1596年~ 備前堤築堤
1600年 関ヶ原小荷駄奉行。
1610年 没
【伊奈忠治】
1621年 新川通開通、権現堂川拡幅。太日川利根川の下流に
1621年 赤堀川開削開始
1628年 中山道移設
1629年 荒川西遷
1629年 鬼怒川・小貝川分流
1630年 新綾瀬川開削
1635年 赤堀川開削失敗、再開削へ。
1641年 江戸川開削
1653年 没
【忠治以降】
1654年 赤堀川開通、利根川東遷(一次完了)
1665年 逆川開削(銚子~関宿~行徳ルート開かれる)
http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo00031.html から

測量をし、設計絵図を描き、関係する領主や村々を説得し、人足や工事資材の手配をし・・・もちろん下僚を使ってやって入るんでしょうが、よくもまぁこれだけのプロジェクトを平行してやったものだなと^^;


で・・・本題に戻りまして・・・ワタクシたちの今の江戸川が今の姿になるコトの起こりが・・・
1621年、新川通が開削され太日川(庄内川)が利根川の下流になった時のことだと思われます。
推測するに、付替えが終わり利根川の下流となった太日川(庄内川)を伊奈忠治を含む幕閣が巡視に来たと思われます^^;

そして、その流れを見て恐らくこういう発言があったのではないかと・・・

この河は、四季を通じて船が遡れるかの?
これこそが、今の江戸川誕生のきっかけだったと思われるのです^^;


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2017年4月27日木曜日

こんな視線ですが飲みますか?^^;【常磐線車内飲酒】


なんか、常磐緩行線の車内で椅子に向かって立ち小便した馬鹿が居たそうで・・・「春になるとネジの外れた人が出るな┐(´д`)┌」と思う今日このごろですが・・・こういう特殊例は裁きを待つとして、これで思い出したのが・・・

常磐線中距離電車車内飲酒問題^^;

もうね・・・他のエリア居住の知り合いなんかにも「常磐線ってみんなお酒飲んでるよね!」っていわれるぐらい、感覚的には多いわけでして・・・中距離電車だけでなく、時々快速電車でも見かけるんですよね^^;

『上野駅の9~12番線には、酒の飲みたくなる呪いでも掛かってるのか?』って検証したくなるぐらいなんですが・・・^^;

個人的な感想は別として、世の中的にどう思われてるのか知りたく、調べてみましたら「しらべぇ」というコンテンツでネットアンケートの結果が出ておりました^^;
http://sirabee.com/2016/01/08/74912/ から

男だけが、年食うと酒に甘くなるって傾向が
如実に出ちゃってますね^^;

逆に女性は不快度が上がっていて、年とともに評価が別れる行動なんですね^^;
ともあれ・・・一番少ない60代男性でも「6割が不快」って結果ですから、世の中的には、ほぼNG行為で、顔をしかめられる行為ってことになるんでしょうねぇ・・・


最近、常磐線の中距離電車で飲まれてる方も、世の中の冷たい視線を感じてか”コンビニ袋で隠しながらコソコソ飲んでたりする”んですが、多少の気遣いはわかるのですが不快の元が”ニオイ”ですので、あまり効果はないんじゃないだろうかと^^;

ちなみに、ワタクシの個人的感覚では”クロスシート車(ボックスシートがあるやつ)は多少は許せる気もするから、ロングシート車では禁酒して”って感じでしょうか^^;

でもまぁ、こういう社会の視線ですので
そろそろ上野駅の9~12番線で酒売るのやめてくれませんか?>JR様
(あったら習慣で飲みたくなるってのもあるでしょから^^;)



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2017年4月26日水曜日

江戸川で物流をも変えよ【江戸川奇譚②】

前回、徳川家が関八州の治所として江戸を開府し、その東側の水の害を取り除くため命を受けた伊奈忠次が【荒川西遷】【利根川東遷】を思いついたであろうというとこまで書いたのですが・・・

では、この文の本来の主役^^;
江戸川はその頃どんな状態であったろうかといいますと

渡良瀬川の下流として「太日川(ふといがわ)もしくは、庄内川」という名前で既に(場所によって今より少し西側を)流れていたのですよね^^;
大きな支流といえば、茨城方面から流れてくる思川だけですし、下総国・武蔵国の国境にもならなかったわけですから、それほど大きな川でなく、普段は所々に州やせせらぎのある中規模の川だったと思われます。

現在の渡良瀬川(足利市周辺)

関八州時代の【荒川西遷】【利根川東遷】発想というのは、いわば今の中川に集中する大河(荒川・利根川)を分散させ江戸の東側をなんとかしよう(無論それ以外にも中流域の灌漑とか治水もあるわけですが)というのが狙いですから、実は利根川東遷というのは当初は、この太日川に利根川を落とし込むつもりだったと思われます(実際に一時期はこのルートを利根川が流れます)

ところがところが・・・時代の波は大きくうねり
徳川家は、武家の棟梁に押し上げられ幕府を開府。
江戸は天下の中心とあいなることとなりました。

こうなると徳川家の視点も関八州から、全国を睨むものに変わります。江戸の都市計画も天下の治所としての色彩を帯びてくるわけですね^^;

国土交通省 関東整備局 荒川上流事務所 WEBから http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo00031.html

【荒川西遷】プロジェクトの方は、現在の行田あたりで荒川を入間川(現在の隅田川)に落とし込む目論見でしたので城下下町の水流も増え江戸の都市計画にもかなってますので、たぶん着々と準備が進んだであろうと・・・。

反面、【利根川東遷】もからみ、問題視されたのが東北太平洋沿岸からの物資輸送です。
この当時の沿岸航法では、東北方面から房総半島をグルリと回って今の東京湾に入る航路が、潮の関係で危険とされてまして、石巻あたりから出た船は那珂湊で行き止まり、あとは江戸まで陸送していたらしいのですが、天下の治所となるとそうもいかない^^;

陸送で特に困るのが、かさばる米と材木(筏にして運んだりもしていた)でして、江戸がどんどん発展して需要は無尽蔵なのに陸送ではまったく間に合わない・・・・

幕府開府後、関東代官頭に命じられた伊奈忠次を始めとして幕閣こぞって絵図を睨み頭を悩ませたと思われます。
そして目につけたのが、銚子から関宿まで延々と繋がる常陸川でつながった湿地帯。
「関宿まで利根川を繋げ銚子に落とし込み、太日川を通じ江戸に運び込むのは如何であろう?」とまぁ・・・いつかは誰かが思いつく発想ですね^^;

こうして【利根川東遷】は、流れを東にずらすどころか河口を東京湾から銚子に変える超ビックプロジェクトになったわけでございます。

またまた次回へ続きます^^;

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2017年4月25日火曜日

関東千年をデザインした男【江戸川奇譚①】

東葛エリアに住んでおりまして、地元をテキトーにブラブラしながら、思いついたいろんな疑問を調べておりますと必ずブチ当たるのが『江戸川とはどんな川か?』という疑問でございます。
現在の関宿 利根川と江戸川の分流点

今の姿だけ見てしまえば”利根川から分流し東京湾に注ぐ川”ってコトになるんですが、そもそも利根川自体が江戸初期に大きく姿を替えており(利根川東遷)それに付随して江戸川もその有り様を大きく替えてきてるのですよね^^;

いろんな説を調べてみますと
”江戸川は人工河川説”も結構ございまして

結構な人の興味を掻き立て、いろいろ書かれている川なんですよね。

ということで今回から数回に分けて、江戸川の成り立ちってモノを、ワタクシなりに探ってみようかなと^^;・・・尚、一応裏付けを取りつつ書き進めてはゆきますが、はるか昔の出来事でございますから、真偽ははるか時代の向こう・・・”そういう事もあったかもね”ぐらいで受け止めていただければ幸いでございます^^;

【コトの起こりは、江戸開府2大プロジェクトから?!】

関東農水局WEBから http://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/tamen/03_1.html
コトの起こりは、江戸幕府が開かれる以前、徳川氏の江戸入府にはじまります。
東海五カ国と引き換えに、関八州に移され、居城を江戸と定めた徳川氏。
武蔵野台地の東の端に建てられた江戸城に入るのですが、広域で見ると城の東側(武蔵国と下総国の境)がなんとも具合が悪い^^;

江戸城のある武蔵野台地を西側として、ワタクシたちが住んでいる市川・松戸・流山の下総台地まで延々と湿地帯が広がってるわけですな^^;
なにせ、その湿地帯を延々と苦労して歩いて、やっと茨城に入ると乾いた地面があるので思わず”常に陸がある”常陸国(ひたちのくに)って名前をつけたぐらいびっちょびちょ。

古い名前を書き連ねるとわかりづらいんで、今の名前で書いてゆきますが、利根川と荒川が今の吉川あたりで合流(現在の中川)し、荒川・足立・葛飾・江戸川・江東区あたりを蛇がうねるようにグズグズダラダラ流れてまして、川以外もそのほとんどは一面の脛まで泥に浸かる葦原、ほんの少しの乾いた部分(台地)に寒村と漁村がポツンポツンとあるとんでもない場所だったんですね。

今も残るウネウネ中川の跡
北条氏支配の関東の片田舎だった頃はそれでよかったんですが、今回は関八州の治所となる大切な地域「あの地の水を抜き、美田に仕立て、水の害を取り除け!」とかなんとかきっと命令し、それを実現しなきゃいけなくなったのが伊奈忠次という内治派の家来だったらしいのでございます。

ダンプカーもブルトーザーもない時代。
命じられた伊那氏は最初は堤を高くし、灌漑を整備することでなんとかしようと考えたと思います(手間もそれほどかかりませんしね^^;)。
でもね・・・・きっと土地の古老の話やいろんな記録を漁るうちに、なにせ関東の2大大河が合わさって流れてるところだから、台風とかで増水しようものなら多少の堤なんぞひとたまりもなく、それじゃどうしようもないって考えに至るわけです。


そして改めて、解決のヒントを求めて関東全域を歩くうちに、関東の川のある特徴に気づいたんじゃないかと・・・・

すなわち・・・・関東の川って山から流れでた後、中流の熊谷~古河ラインで一回落ち着いて、再びそこから東京湾に向かって流れ出すっていう特徴があるのですよね。

ならば・・・下流の堤を整備して水を無理やり治めるのでなく、中流で流れを替えてしまい中川に落とし込むことを廃せば良いのではないかと。

こうして構想されたのが、
2大大河を西と東に分けて落とし込む
【利根川東遷】【荒川西遷】の
2大ビッグプロジェクトだったわけで
ございますな。



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2017年4月22日土曜日

流山・三郷・松戸 3市を結ぶツツジ愛【3市揃って市の花の”ツツジ”】

いわゆる”市の花”というものがありまして、何らかのゆかりがある品種やその地域でしか見れないモノ、市民が親しんでる品種が設定されているのですが・・・^^;

ワタクシのブラブラ行動圏で”どんな花を設定してるのかな~??”って調べましたら
なんと!松戸・流山・三郷の3市が、
【ツツジ】を市の花として制定した
仲間でございます^^;

確かに!このエリアをぶらぶらしておりますと道路脇の植え込みから始まって、いろんな施設やマンションの植栽、公園のの木々など至るとこでツツジは見かけますし、目を楽しませてくれます^^;

そこで今回は、あくまでも私見で【CAZ版3市のツツジポイント】をご紹介してみようかと^^;これからGWにかけて足を延ばすのもいいかもですよ^^;


【その① 流山:東福寺のツツジ


南流山駅を背にして、宮園方面に歩いてゆき歩道橋を越え坂を登ってゆきますと、左手に宮脇書店が見えてきたあたりで左側に『丘一面ツツジ』の東福寺のツツジが見えてきます。
来た道から1本奥の東福寺寄りの裏参道に入りますと、見上げるほどのツツジの壁!
晴れた日、バックが青空の時が最もオススメです^^;



【その② 三郷:二郷半用水緑道のツツジ

三郷市観光協会Webから http://www.misato-city.com/hana_goyomi.html
ツツジの生け垣が3段になって500mも続く遊歩道になっております。
場所がわかりづらく駅から結構あるのが難点ですが、サイクリングとかの途中に立ち寄ると素敵な体験ができるかも^^;
”新日本歩く道紀行「水辺の道100選」”に認定されたそうです。



【その③ 松戸:戸定館のツツジ

コチラは、ツツジ単体というよりもツツジを含んだ庭園美と晴れた日だと富士山まで望める借景を楽しむ世界。もちろん公園内には、その他のツツジもキレイに咲き誇っております(確か、同時期に藤のイベントもやっていたはず)。 



【番外 野田:清水公園のツツジ】

やっぱり、近隣でツツジといえばここは外せない^^;
歩道とかかで咲いてる植栽のイメージでここのツツジを見ると、その木の大きさや色のバリエーションに驚かされます。新緑の時期とも重なりますから、ほんと緑の息吹と花を満喫できます^^;


ちなみにツツジの花言葉は「節度」「慎み」だそうでございます^^;
3つの市のイメージにもあってるのかな???

ツツジは身近なので隠れた名所がいっぱいありそう^^;
”ここ良いよ!””ここが凄い!”と
いうのがあったら
ぜひ教えて下さいませ!! (੭ ˃̣̣̥ω˂̣̣̥)੭⁾⁾

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2017年4月20日木曜日

東葛エリアの区分けがあまりにも酷い件【衆議院小選挙区改定案】

<注:政治がらみの話ではありますが特定政党に利するものではありませんのでお許し下さい>
昨日(2017/4/19)衆院小選挙区の区割り改定案(国会議員を選ぶ地域分けを1票の格差がありすぎるから変えましょうねって案)が勧告(これで検討したらどうっすか?内閣さんという原案)されたんですが・・・・

東葛エリアの区分けがあまりに酷い^^;

まぁ、現状でも酷いちゃ酷くて今回は多少の調整ではあるんですが、それでも改めて見ますと酷い(←酷い酷いと文章はクドい)

千葉県の小選挙区区割り wikipedeia「小選挙区」より

松戸・柏・市川・船橋(※東葛エリアのみ抜粋)は、市の単位を分断^^;
ワタシャ松戸市民ですが、衆議院議員選びに関しては流山の皆さんと同じ7区(まぁ、それはそれでいいような気もする^^;)。んでも、市の中心の話からは遠ざけられた気分になってます^^;

で・・・自分の住んでるエリアじゃないけど
これはあんまりだろ?って思うのが13区

現状でも柏の旧沼南町地区が含まれてたんですが、今度の改定案では、そこに高柳出張所管内が含まれる形が検討されるそうで・・・・

柏の一部と鎌ヶ谷、白井、船橋の一部・・・・ぐらいまでは”まぁ・・・・区分けの苦労もあるからなぁ?”って思い我慢できそうな気もしますが、富里市とか印旛郡(酒々井町と栄町)まで入ってると相当住民意識が異なるんじゃないだろうかと^^;

成田を中心とした経済圏の人たちと首都圏住民じゃ相当望むこと違うでしょ?^^;(たぶんね、成田スカイアクセス沿線住民みたいな捉え方なんだろうけど)

自分がもし、このエリアに住んでたら13区って周囲とナンバリングが飛んでるコト自体不愉快で、なんか”面倒くさいから残り全部13区でいいや!”って適当に扱われた気分になりまする(¯―¯٥)

確かに人口も多い地域なので、区分け案つくるのも大変とは思いますが
どうせ是正しても1.95倍も格差があるわけだし(ワタシらの意見、半人前でしょ?)・・・
せめてもうちょっと
地域がまとまりやすい区分けにして欲しい
と切に願うのです^^;
下総国(県)として独立運動起こしますよ(*´∀`*)

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2017年4月19日水曜日

三郷にあった日本一の仕分け機能付きジェットコースター【武蔵野操車場のしくみ】

現在の武蔵野線「吉川~三郷」間に【武蔵野操車場】という日本一だった貨物列車用の施設があって、それの影響で開設当時の新三郷駅が「世界一ホームが離れた駅」としてギネス記録となったってハナシは、もう皆さんご存知のとおりなんですが^^;

wikipedia 武蔵野操車場から

改めて「東京地形図」ってGoogle Earth用のアドインで跡地を見ると
よくもまぁコレだけの土をこの場所に運んできて人工の台地と傾斜を作ったものだなと感心させられます^^;

GoogleEarth+東京地形図から武蔵野操車場跡地を見る

貨物列車の操車場というのは、要はあっちこっちから荷物を積んで集めてきた貨車を目的地別に組み直して、(長大な)貨物列車を仕立てて各地方に送り出すのが役割なんですが、平らな場所でいちいち機関車で外したりつなぎわせたりして編成を作ってると効率が悪い。

だったら、丘の上まで上げていって、後は重力の力で貨車が下ってゆく時にポイント操作でそれぞれの仕分け線に振り分けて編成を作っちゃいましょう!ってのが「武蔵野操車場」の基本的な仕組みだったらしいです(ハンプヤードとうらしいです^^;)。

雑に言えば、緩いポイント仕分け機能つきジェットコースターですな^^;

操車場にはいってきた貨車は、まず吉川側にもっていかれて、そこから三郷側の丘に押し上げられます。

んで、ジェットコースターのてっぺんが今のケーズデンキ吉川店の東側だったらしく、なるほど盛り上がっております^^;ここで必要に応じて切り離すわけです。

同上:一番高くなってる部分

そこからダラダラと下って新三郷駅手前あたりが一番低くなってるようで、ゴロゴロと下ってゆきポイント操作で仕分けられた貨車が、このあたりでガッシャンコンと繋がるわけですね^^;

同上:新三郷駅手前の低くなってる部分

んで、出来上がった編成は、三郷駅側に引っ張っていって出発を待つってのが、基本的な流れだったようでございます^^;



って、文書で書くと仕組みは簡単ですが、コレが約5kmある施設本物の貨車(15~25tある)をゴロゴロさせて1970年代にほぼ自動でやってたってこと考えるとものすごい施設です。

三郷ICとかこの操車場とか
三郷はスケールのデカイものに
縁が深いですね^^;


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2017年4月18日火曜日

流山&松戸 繁栄のヒミツ!【通行止めで得した町】

流山や松戸の”町の歩み”の説明を見ますと、必ず出てくるのが「河岸が設けられ、水運の要所として栄えました」という記述^^;

江戸川・利根川 水運ルート


こだわらなきゃ”ふ~ん”って読み飛ばすんですが、フトそこに引っかかると、江戸川に荷物を積んだ船がそれなりに通行してたとしても、それらは基本通り過ぎるだけで、茶店や旅籠を作ったとしても「ここで一休みするべ!」って船頭さんたちが寄るだけ・・・

それじゃ今の高速のPAと役割は変わらないわけで・・・
そんなことでそんな発展するか?
って疑問にぶち当たります^^;


突き詰めて言えば、河岸として発展するためには【荷物の積み下ろしをする必要】が、その場所にないとダメで、積み下ろしをするから人手も必要だし、一時的に保管する倉庫も必要、そこから乗せようとする荷物も集まってきて、始めて河岸として栄えるわけなんですよね^^;

流山や松戸は、東日本太平洋側沿いの物資(銚子の鮮魚とかも)が、銚子から利根川をさかのぼって関宿を経由し、行徳に至る川運のルート沿いにありましたって説明されるんですが、実はココに秘密が・・・

このルート比較的簡単に
事実上通行止め
になってたらしいのです

川といっても水運で考えれば『船の通れる川』と『船の通れない(浅い)川』に分けられます。
川っていうのは季節や天候で水量が大きく変わりますから、水が減っちゃうと船が通れない所が出来ちゃうらしいのですよ。

利根川・江戸川ルートで言うとその代表格が鬼怒川の合流域(今の常磐道とかTXが渡ってるあたり)だったらしく、鬼怒川が運んできた砂や泥がここにたまっていて、ちょっとした渇水で通行止め(季節や天候で浅くなって通れなくなる)になってたそうで^^;・・・

んでもって、いつの時代でも急ぎの荷物(船が通れる水位回復まで待てない)ってものはあるもので「こうなりゃ積み替えて陸上通過してでも運ぶべし!」って考えになり、柏の布施(現・布勢)から江戸川目指して陸上通った荷物が再び川舟に積み込まれるのが流山、もうちょっと手前の木下(布佐)で陸揚げして江戸川に運び込まれた場所が松戸ってことになるらしいのでございます^^;



なんでこの2ルートかっていいますと、その間には水運に適さない手賀沼がベロンって居座ってまして、手賀沼の西側を通るか、東側を通るかの違いだったらしいのですよね^^;
(ちなみに江戸川の水運諦めて、木下から行徳までの陸路が木下街道だそうです)

ちなみにこの銚子~関宿~行徳ルート
順調でも3日かかったそうです^^;
鮮魚に関しては、時間短縮で一部陸上ルートもとられてたとか^^;


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2017年4月17日月曜日

新松戸は野暮だった(¯―¯٥)【笛吹市住民の知恵に脱帽したお話】

週末、桃の花を見に山梨県の甲州市~笛吹市あたりをブラブラしておりまして^^;
今回は、レンタサイクルを借りて観光地を巡るというよりも、地域いっぱいに広がる桃の花を堪能しまくってたわけなんですが・・・・

笛吹市の旧一宮町あたりを通ってると、
小さな交差点にこんなカワイイ表示が^^;


まぁ、実際にはワンちゃんは停止線とかわかんないから、子どもたちや犬のお散歩を楽しむお年寄り(歩行者)向けの表示なんでしょうけど、「おっ?」って思う表示なんですよね^^;

しかもこの表示、ここ一箇所ではなくて、大小合わせていくつもの交差点に整備(?)されており、人の足型や靴の形などもあり、なんか見つける毎に妙にほっこりした気分になるんです^^;
(別にコレを見に行ったのでないので、たまたま見かけた場所だけですが・・・)


んで思い出したのが、地元新松戸の歩道に書かれてたコレ^^;

全くの主観ですが
あぁ我が地元は笛吹市の人々に較べて
知恵が足らないなぁと^^;

目的は多分一緒。
ただ、笛吹の表示はなんかほほえましくて”粋”なんですが、新松戸のは”野暮”。
笛吹のは、たぶん住民の方の手作り・・・近所のは、市が業者には発注したもの。

もちろんね、行政が公的に定められてない表示をしてうんぬんとか、いろいろ議論はあるかと思いますが、個人的には立派な歩道や頑丈な柵、業者の書いた注意書きより、知恵の行き届いた笛吹市みたいな表示が事故を減らすんだろうなぁと感じます^^;

笛吹市の旧一宮町エリアの皆さん
皆さんの町はとても素敵です^^;



せっかくだから、素敵な甲州市&笛吹市の桃の風景もペタペタと





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2017年4月14日金曜日

実は我が地元、太古関東の中心だったのかもしれない【総国(ふさのくに)のお話し】

ワタクシが普段からブラブラしている松戸・柏・流山・三郷地域は、昔の分国で言えば下総国[しもうさのくに]でございまして、これとセットになって市原・木更津・茂原あたりが上総国[かずさのくに]だったことは、皆さまご存知のとおりでございます。

流山市webより 下総国 http://www.city.nagareyama.chiba.jp/life/22/184/8883/023260.html 

でまぁ・・・結果的に上下2つに分けられたとしても下総上総の
【総】ってどんなとこ?」って思いついちゃったのが、ついさっき( ・`д・´)
早速調べてみましたよ^^;


”総”は、もともとは”捄”とも書いたそうで【総国(ふさのくに/捄国)】というのが、後代の下総上総を中心にあったそうでございます。

で・・・”捄”っていうのは麻の実のことらしく、つまりヤマト王国(関西)あたりからみると
麻のとれるトコ←オイ
って認識だったんですね^^;(今だと落花生国とか葱国とか小松菜国にされてたかも)

麻(七味唐辛子の粒のやつですね) wikipediaから https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B5


この時代の地域ネーミングって群馬&栃木あたりが蝦夷人(毛人)のいるとこで毛国(けのくに)、峠を越した向こうだから越国(こしのくに)と非常に  雑  ダイレクトで好きですわ^^;


興味深いのが総国は、実は南関東一体を含む呼び方で、下総&上総に分ける遥か前に総国(ふさのくに)の一部を(関西からみて)総上[ふさかみ]、総下[ふさしも]に分けて、それが転じて相模(さがみ:フサカミのフが取れ訛る)、武蔵(むさし:フサシモのモが取れて訛る)って説もあるのがとっても愉快^^;

わ~はっはっ!
この説によれば東京神奈川埼玉より、チバラギと苛められたワタクシたちのエリアが本家本元ってことになりますな^^;
だから何だ?というツッコミはなしの方向でw


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