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2017年4月25日火曜日

関東千年をデザインした男【江戸川奇譚①】

東葛エリアに住んでおりまして、地元をテキトーにブラブラしながら、思いついたいろんな疑問を調べておりますと必ずブチ当たるのが『江戸川とはどんな川か?』という疑問でございます。
現在の関宿 利根川と江戸川の分流点

今の姿だけ見てしまえば”利根川から分流し東京湾に注ぐ川”ってコトになるんですが、そもそも利根川自体が江戸初期に大きく姿を替えており(利根川東遷)それに付随して江戸川もその有り様を大きく替えてきてるのですよね^^;

いろんな説を調べてみますと
”江戸川は人工河川説”も結構ございまして

結構な人の興味を掻き立て、いろいろ書かれている川なんですよね。

ということで今回から数回に分けて、江戸川の成り立ちってモノを、ワタクシなりに探ってみようかなと^^;・・・尚、一応裏付けを取りつつ書き進めてはゆきますが、はるか昔の出来事でございますから、真偽ははるか時代の向こう・・・”そういう事もあったかもね”ぐらいで受け止めていただければ幸いでございます^^;

【コトの起こりは、江戸開府2大プロジェクトから?!】

関東農水局WEBから http://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/tamen/03_1.html
コトの起こりは、江戸幕府が開かれる以前、徳川氏の江戸入府にはじまります。
東海五カ国と引き換えに、関八州に移され、居城を江戸と定めた徳川氏。
武蔵野台地の東の端に建てられた江戸城に入るのですが、広域で見ると城の東側(武蔵国と下総国の境)がなんとも具合が悪い^^;

江戸城のある武蔵野台地を西側として、ワタクシたちが住んでいる市川・松戸・流山の下総台地まで延々と湿地帯が広がってるわけですな^^;
なにせ、その湿地帯を延々と苦労して歩いて、やっと茨城に入ると乾いた地面があるので思わず”常に陸がある”常陸国(ひたちのくに)って名前をつけたぐらいびっちょびちょ。

古い名前を書き連ねるとわかりづらいんで、今の名前で書いてゆきますが、利根川と荒川が今の吉川あたりで合流(現在の中川)し、荒川・足立・葛飾・江戸川・江東区あたりを蛇がうねるようにグズグズダラダラ流れてまして、川以外もそのほとんどは一面の脛まで泥に浸かる葦原、ほんの少しの乾いた部分(台地)に寒村と漁村がポツンポツンとあるとんでもない場所だったんですね。

今も残るウネウネ中川の跡
北条氏支配の関東の片田舎だった頃はそれでよかったんですが、今回は関八州の治所となる大切な地域「あの地の水を抜き、美田に仕立て、水の害を取り除け!」とかなんとかきっと命令し、それを実現しなきゃいけなくなったのが伊奈忠次という内治派の家来だったらしいのでございます。

ダンプカーもブルトーザーもない時代。
命じられた伊那氏は最初は堤を高くし、灌漑を整備することでなんとかしようと考えたと思います(手間もそれほどかかりませんしね^^;)。
でもね・・・・きっと土地の古老の話やいろんな記録を漁るうちに、なにせ関東の2大大河が合わさって流れてるところだから、台風とかで増水しようものなら多少の堤なんぞひとたまりもなく、それじゃどうしようもないって考えに至るわけです。


そして改めて、解決のヒントを求めて関東全域を歩くうちに、関東の川のある特徴に気づいたんじゃないかと・・・・

すなわち・・・・関東の川って山から流れでた後、中流の熊谷~古河ラインで一回落ち着いて、再びそこから東京湾に向かって流れ出すっていう特徴があるのですよね。

ならば・・・下流の堤を整備して水を無理やり治めるのでなく、中流で流れを替えてしまい中川に落とし込むことを廃せば良いのではないかと。

こうして構想されたのが、
2大大河を西と東に分けて落とし込む
【利根川東遷】【荒川西遷】の
2大ビッグプロジェクトだったわけで
ございますな。



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