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2017年5月2日火曜日

江戸川は人と出会い生まれる【江戸川奇譚④】

江戸時代の江戸川を描いた浮世絵
船橋市webより http://www.city.funabashi.lg.jp/shisetsu/toshokankominkan/0001/0005/0002/fukeiga6.html

"この河は船が遡れるかの?"

前回、このセリフで3回目を終わらせましたが、この思いこそが現代の江戸川を性格づけるものです。

もう一度、つらつらと書いてきたこの記事の1~3回を振り返れば、江戸開府当時「伊奈忠次」は、江戸城の東側に下総台地まで広がる湿原を使える土地とするため、その中心に流れる大河を分散させ東と西に分けることを思い立ちます(荒川西遷&利根川東遷)。

そして、江戸幕府が開かれ、江戸が天下の中心になることで、その河に『水運』という要素が強く加わり、利根川は東の銚子より関宿を経て東京湾に繋がる一大水路の役割を持たせられたわけでございます。

ところが・・・東京湾側の新しい利根川の流路となった太日川(庄内川)は、元が中規模河川の渡良瀬川下流であったため、底が浅く州やせせらぎのある広がった流れ・・・利根川の水を落とし込んでも荷物を積んだ船が年を通じて行き交う水路には、そのままではならなかったのでしょう。

父忠次の衣鉢を継いだ「伊奈忠治」は、利根川の太日川落とし込み直後から、まず関宿~流山市北部間の台地を貫く河川の改修に取り掛かったと思われます。

平野に流れ込み、自由に広がりうねうねと流れる太日川(庄内川)の流れを捨て、台地を穿ち、なるべくまっすぐに高低差を均し船の通過を可能とする工事です。
この工事は、恐らく太日川への利根川落とし込み直後から測量や村々との調整が始まったと思われますが、具体的な工事は1635年に始まり、1641年に開通したそうでございます。
現在の野田市周辺の台地を貫く江戸川の流路

では・・・ワタクシたちが現在眺めている流山・松戸あたりの江戸川の流路はどうだったのでしょう?果たして人工河川なのでしょうか?^^;

もう一度、現在の地図ですが関東平野南部の土地の高低差が分かる地図を眺めてみますと海抜3m程度の水色の部分が、北は松伏から東京湾まで延々と広がっています。

荒川放水路周辺(葛飾・江東・江戸川区)の海抜0m以下の地域は、大正~昭和期の地下水の組み上げで出来たものですが、それ以外の土地の高さは江戸初期とそれほど変わらないと思います。

そうなんです!水色の土地は全て人の手が加わるまで河の領域だった土地なのですよね^^;

北関東の山々から流れ出た河々は、関東平野の北部を流れ、この湿地帯にぶつかった時、大きく広がり、時に湿地と一体化し、時にうねうねと蛇行しながら、東京湾にゆったり流れ込んでいたのです。

今のイメージで捉えるこの地域の河というものがあっても、それは非常に仮初めの姿で、流路が決まってる時ほど、そこに河の運ぶ土砂がゆっくりたまってゆき蛇行を強めながら移動したり、台風などで気ままに流路を大きく変えていたはずなのです。

第一回で徳川氏江戸入府の時、現在の中川に”荒川”と”利根川”が流れ込んでいたと書きましたが、この広大な湿原の中では、それさえも数年から数十年の流路に過ぎない可能性も高く、下総台地から武蔵野台地までは湿原という名の巨大な河であったという方が正解に近いと考えます。

今のワタクシたちが眺めている江戸川というのは(流路が決められる直前に船の通行のため、一度乾かし掘り下げられたにしても)、湿原を人が乾かし奪い、河に残された領土が流れとして固定されたものに過ぎないと思うのです。

つまり、江戸川は湿原に人々が住み着き、手を加えたことで生まれた河であると^^;

これを「人工河川」と呼ぶか「自然の河川」と捉えるかは、語句の解釈の問題でしか無いと思うのですよね^^;

ちなみに・・・銚子~関宿~行徳の水運ルートは、赤堀川開削後、更に逆川の開削をもって伊奈忠治没後の1665年に開かれます。
そして、この水運ルートが不完全であったことが松戸&流山の繁栄につながるという不思議なめぐり合わせになってゆくのです^^;

江戸川奇譚 おわり^^;

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