江戸川・利根川 水運ルート |
こだわらなきゃ”ふ~ん”って読み飛ばすんですが、フトそこに引っかかると、江戸川に荷物を積んだ船がそれなりに通行してたとしても、それらは基本通り過ぎるだけで、茶店や旅籠を作ったとしても「ここで一休みするべ!」って船頭さんたちが寄るだけ・・・
それじゃ今の高速のPAと役割は変わらないわけで・・・
そんなことでそんな発展するか?
って疑問にぶち当たります^^;
突き詰めて言えば、河岸として発展するためには【荷物の積み下ろしをする必要】が、その場所にないとダメで、積み下ろしをするから人手も必要だし、一時的に保管する倉庫も必要、そこから乗せようとする荷物も集まってきて、始めて河岸として栄えるわけなんですよね^^;
流山や松戸は、東日本太平洋側沿いの物資(銚子の鮮魚とかも)が、銚子から利根川をさかのぼって関宿を経由し、行徳に至る川運のルート沿いにありましたって説明されるんですが、実はココに秘密が・・・
このルート比較的簡単に
事実上通行止めになってたらしいのです
川といっても水運で考えれば『船の通れる川』と『船の通れない(浅い)川』に分けられます。川っていうのは季節や天候で水量が大きく変わりますから、水が減っちゃうと船が通れない所が出来ちゃうらしいのですよ。
利根川・江戸川ルートで言うとその代表格が鬼怒川の合流域(今の常磐道とかTXが渡ってるあたり)だったらしく、鬼怒川が運んできた砂や泥がここにたまっていて、ちょっとした渇水で通行止め(季節や天候で浅くなって通れなくなる)になってたそうで^^;・・・
んでもって、いつの時代でも急ぎの荷物(船が通れる水位回復まで待てない)ってものはあるもので「こうなりゃ積み替えて陸上通過してでも運ぶべし!」って考えになり、柏の布施(現・布勢)から江戸川目指して陸上通った荷物が再び川舟に積み込まれるのが流山、もうちょっと手前の木下(布佐)で陸揚げして江戸川に運び込まれた場所が松戸ってことになるらしいのでございます^^;
なんでこの2ルートかっていいますと、その間には水運に適さない手賀沼がベロンって居座ってまして、手賀沼の西側を通るか、東側を通るかの違いだったらしいのですよね^^;
(ちなみに江戸川の水運諦めて、木下から行徳までの陸路が木下街道だそうです)
ちなみにこの銚子~関宿~行徳ルート
順調でも3日かかったそうです^^;
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