『三匹獅子舞』自体は、関東一円にあるようで、このエリアでも柏・松戸でも似たような獅子舞を見ることが出来るのですが、特に三郷の獅子舞を見せていただくと、水害が多かった地域であるために祈りが切実なのかなと感じたりも致します。
香取様の三匹獅子舞は9のつの演目(庭)があるそうなのですが、三郷ならではの演目といえるのが「太刀懸り」という演目。
これには三郷の人達から見れば、
極めて理不尽な治水の歴史がからんでいるのですよね(-.-;)
まず、「太刀懸り」とそれにまつわる昔話なのですが
文化四年(1807年)六月の大雨で洪水がおこり、あたり一帯が水に沈んでしまいそうになりました。
被害を食い止めるには対岸の桜堤を壊して水を流さなければなりません。けれど、桜堤には堤を守る役人がいて、そう簡単に許可をもらえそうもありませんでした。
このままでは三郷一帯が水に沈み、大勢の死人が出るでしょう。
そこで白石家の兄弟が交渉役として対岸へ渡ることになりました。
船にかがり火をたき、荒れ狂う大場川を無事に渡れるようにと、先頭には三つの獅子頭を乗せて対岸へとこぎ出しました。
すると、どうでしょう。
堤を守っていた役人たちは、獅子頭を乗せた船を見て、龍がおそってきたものと思いこみ逃げてしまいました。
そのおかげで堤は壊され、三郷の被害は防ぐことができたのですが、このとき船に乗っていた兄弟は、濁流に流されて二度と帰ってきませんでした。
地元にはもとから三頭の獅子が舞う行事がありましたが、その後この出来事を記念する舞もくわわり、現在でも七月の第一日曜日を最終日とする三日間のお祭りで奉納されています。
「珍獣様の語り部屋 http://www.chinjuh.mydns.jp/ohanasi/365j/0001.htm」から引用
”あれ?「洪水」「桜堤」「堤防破壊」どっかで読んだことあるな?”とこのブログをずっと読んでくださってる方は気づかれたかもしれませんが、実はこのエピソード堤防を破壊した場所こそ違え1947年のカスリーン台風の大洪水とまったく似たパターンなのです。
治水上、三郷の悲劇性は2つありまして・・・
1つ目は、三郷市の領域全体が、本来は利根川そのものということ。
以前【江戸川奇譚】というエントリに書いたのですが、江戸幕府による利根川東遷が行われるまでは、現在の中川が利根川。三郷市の領域というのは「戸ケ崎」や「彦○(「彦」というのは出っ張ってるというコト)」という地名の地域等除けば、ほぼ一面の湿地で河が増水すれば、河そのものになっていた場所なんです(非常に雑に捉えてですが^^;)。利根川東遷(中川&江戸川土手等整備)で三郷市域は乾いた場所になるのですが、元が河ですから、大雨があれば再び河そのものに戻ってしまう怖さを常にはらんでいたのですよね。
で・・・2つ目・・・これが三郷からみれば酷い話なのですが
そんな水害の危険性がある三郷市域のことを鑑みず
1729年に幕府は現在の葛飾区&江戸川区を水害から守り、その水源とするため桜堤&小合溜井を作ってしまうんです。
これはいわば、江戸川と中川の間に桜堤というせき止め土手を使って、小合溜井(今の水元公園と三郷公園に挟まれた池です←この記事参照)というダムを作ったようなもの。この小合溜井&桜堤のおかげで今の葛飾区&江戸川区は洪水から守られ、干ばつ時の水源も確保された(水元の地名発祥)のですが、今のダムと違うのは放水機能がものすごく貧弱なこと。
三郷から見ると、中川&江戸川の土手に挟まれただでさえ水害になりやすいのに、下に蓋をされ大雨が来れば沈むの確実にされたようなモノ。
「せめて中川・江戸川の堤防を高くすれば??」と思われるかもしれませんが、多くの場合、三郷の水害ってはるか上流(久喜とか幸手・春日部とか)で溢れ出た水が面となって三郷にやってくるパターンが多く、中川土手&江戸川土手が逆に水を囲い込むことで水没するって状況も多かったようなのです(排水機なんてないですから、下流に流れるか染み込んで干上がるのを待つしかないのです)
きっとね・・・”桜堤さえなければ・・・”ってことが何回も何百年もあったのだと思われます。
三郷市は全域が海抜1m程度、戸ケ崎や彦○、その他盛り土された場所が3m程度です。 |
なんかね・・・・三郷の人達の無念さが伝わってきます(-.-;)
洪水と常に隣り合わせだったからこそ、知恵や工夫も生まれたのでしょうが・・・^^;
<こんな記事も書いてます(。・_・。)>
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