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2018年6月4日月曜日

時代に取り残された松戸の地名【大谷口新田&上総内】

昭和以降、全面宅地開発されて”どこもかしこも住宅だらけ”ってのが我が松戸の風景ですが、重箱の角をつつくように地図を眺めていると

誰も使わない(=人は住んでない)とりのこされた地名というのが
2箇所も松戸市内に存在するのですね^^;

ということで、今回はそんな取り残された地名のお話^^;
2箇所とも小金・新松戸エリアなんですが、新松戸在住ウン十年のワタクシちっとも知りませんでした^^;

新松戸 坂川の花桃
新松戸 坂川の花桃・・・ここに秘密が!!


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2018年5月21日月曜日

松戸の一部は、元三郷(。・_・。)【江戸川流路変更で真っ二つにされた樋野口村】

江戸川の流路変更や治水整備はいろんなドラマをはらんでいるようでして、過去にも「河川敷整備で消えた外河原村」とか「江戸川の向こう側も元流山」の話を書いたのですが、現在の三郷⇔松戸においても似たようなことがあったようでございます。

今の地名で感覚で言えば”元三郷”だったのが、現在の松戸市”樋野口”
享保年間(江戸時代中期)まで、江戸川の西岸だったらしいのですよね。(。・_・。)

今も残る松戸側の【樋野口】



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2018年3月15日木曜日

マツドの”ド”!②【誰が最初に松戸と呼んだのか?^^;】

前回、松戸の【戸】のほうに地形の特徴を表す意味がある・・・ってとこまで、たどり着いてニヤニヤした所で終わった”マツドのド”ってエントリーなんですが・・・

じゃ、最初にどんな人たちがこの地名をつけたんでしょうね?^^;
ってのが今回のテーマ。

尚、以下文献等をあまり辿ってはおらず、基本的に推測で書いておりますので、そのことお含み置きを^^;
現在ではここが”戸”で河が狭まっていたといわれても面影もありませんが・・・
三郷市域と矢切も水の領域と想像するとそうなのかなとも・・・^^;


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2018年1月15日月曜日

マツドの”ド”!①【あえて地名由来の定説に異議を唱えてみる^^;】

松戸の地名由来を調べますと、諸説あるとしながらも市役所のWebでは
この地域が太日河(ふとひがわ・現在の江戸川)の津(渡し場)でもあったことから、「馬津(うまつ)」とか「馬津郷(うまつさと)」と呼ばれており、それが「まつさと」になりやがて「まつど」になった
という説明になってるのですが・・・

ワタクシ的にはなんか腑に落ちない(・。・)
腑に落ちないならほじくってみましょうというのが今回の記事でございます^^;

今も残る「矢切の渡し」


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2018年1月13日土曜日

柏・松戸~このあたりも東海道が通っていた!?【水戸街道の原型】

「また、あざとい記事タイトルつけてるなぁ・・・」と歴史好きの一部の方には思われてるでしょうがお許しをいただくとして^^;

”水戸街道っていつからあるんだ?”って、いろいろ調べてみたら
このあたりに初めて通った幹線官道は【東海道】らしいのですよ^^;

東海道の道標と言われる葛飾区立石にある『立石様』/GoogleEarthから


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2018年1月9日火曜日

柏・松戸・流山 身近にあった日本最大の内海【香取海~かとりのうみ】

平将門公の逸話を始め、このあたり(柏・松戸・流山)の江戸期以前の歴史を辿ってると、どういうわけか”T”字型に人がウロウロ(このあたりは「T」の下の棒あたり/軍勢の移動とかモロモロ)してることが多く、どうも現代の地理感覚からいうとしっくり来なかったのですが・・・・

このあたりの東側、日本一の内海”香取海(かとりのうみ)”があって、常陸とは切り離されていたのですね^^;


香取海の名残りでもある手賀沼(虹が出てますよ^^;)


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2017年7月29日土曜日

江戸川開削で村域を分けられた村々【吉川市内の一部も元流山市域^^;】

あいかわらず江戸川関係のネタが好きで、暇があると古い地図なんぞ見つけてニヤニヤしてる気持ち悪いワタクシですが、今回は野田市立図書館所蔵の『下総国輿地全図/1849年(幕末期)』をみて見つけたお話し^^;

下総国輿地全図/野田市立図書館Webから

現在の流山市域あたりを見て、ムムム!と思ったのが
江戸川を挟んで同じ地名が結構見られるんですよね^^;

下総国輿地全図の現流山市域アップ

「南」「上新宿」「小屋」・・・「深井」と江戸川を挟んで仲良く両側に並んでるわけです^^;(支村扱い/一部は新川さえ挟んでる)

このブログでも以前「江戸川奇譚」ってシリーズを書いて、現流山市の下花輪交差点あたりまでの江戸川は舟の通りを良くするため人が掘った人工河川であることは承知してたんですが、ここまで同じ地名が分割して載ってる地図を見ると”やっぱり人工河川だったんだなぁ”と思うとともに、江戸川(庄内古川/太日川)の流れが変えられた後も[基本は同じ集落内]ですから頻繁に行き行きしてたんだろうなと思うわけです^^;

ちなみに現在この江戸川の西側は埼玉県吉川市!
んで・・・だとしたら”今でも吉川市現流山市由来の地名結構あるんでは??”と思って見たらあるわあるわ^^;

まず【三輪野江】という大字(元は村)^^;これなんか三輪野山と明らかに対応した地名ですし、【半割】なんていう”分割されたことをイメージさせる名前の”字”もある^^;
さらに【深井新田】なんてモロに流山由来の地名が残ってる場所もあるんですね^^;

少なくとも江戸後期(1849)においては下総国輿地全図に記されてるように現流山市となる村々の飛び地扱い(武蔵国でなく下総国)だったようですし、このエリアの庄内古川(江戸川の元になった川=国境 / 現在の江戸川より少し西を流れてた)も大正期まではカタチが残ってたですので「どの時期に埼玉に編入されたんだろ??/恐らく明治20年代?/松戸の外河原村と同じく江戸川改良で河川敷にされた?」と調べようとしたところで時間が尽きて、続きはまた気が向いたらと相成りました^^;

飛び地とはまったく関係ないと思われますが「下総国輿地全図」を見ると
”加”だけが【加邑】って記されてるんですよね^^;特別な格式でも村落にあったのかしらん??

※”邑”ってのは、中国式にカッコつけた村の呼び方^^;

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2017年5月22日月曜日

たった3軒のみが使える住所表示!【三郷市鎌倉の不思議^^;】

週末に水元公園あたりまでブラブラしてきまして、その後、地図で見ていて発見したネタでございます^^;

水元公園との境に『三郷市鎌倉』って住所があるのですが、なんとこの住所使えるのはたった3軒だけ!!!

場所は、このあたり^^;東京都の境です。(GoogleMapから)

ぐ~っとあっぷにすると、思った以上に鎌倉エリアは狭い???^^;(同上)
更にアップにすると・・・3軒だけやんけっ(@_@。(同上)

ストリートビュー使えば、通りの雰囲気も見れるんですが、お住いになってる方に迷惑がかかるといけませんので、興味のある方はご自分で^^;

しかし、別に広い場所に住宅がポツポツって場所でなく、それなりに密集してるエリアで3軒だけが『三郷市鎌倉』なんですね^^;(ちなみに、郵便番号もこの3軒だけ『341-0046』になります^^;)


なんでこうなった?
って思い調べてみますと・・・

この場所、もともとは『三郷市鎌倉』って地名(字)の飛び地だったそうで、本来の『三郷市鎌倉』が、1982年の町名地番整理で「鷹野」になったあとも、ここだけ鎌倉という地名が残り現在に至るそうでございます^^;(町会とかゴミ捨て場3軒だけで、どうしてるんだろう?)

んじゃ、『もともとの「三郷市鎌倉」はどのあたり?』ってことですが、現在のランドマークでいうと、上葛飾橋を下ってきてケーヨーD2からダイソー周辺^^;鷹野4~5丁目あたりがその中心だったようで、いまでもD2前のバス停は「鎌倉」ですし、鎌倉稲荷神社という神社さんも残っております^^;


D2前の「鎌倉バス停」(Googleストリートビューから)

ちなみに・・・この三郷市鎌倉という場所、1889年(明治22年)旧戸ケ崎村に合併する前までは【鎌倉村】という1つの村だったそうなのですが、「鎌倉村」というと現在の葛飾区鎌倉(江戸川区との境)も「鎌倉村」だったそうなんですよね^^;

近隣地域で同じ村名が、両立するってすごい珍しい気がするのです^^;(勘違いが発生するから、普通は避ける)

いろいろ偶然や細かな事情が重なってこうなったんでしょうが・・・
これはこれで贅沢な感じがしますし^^;
貴重なんじゃないかと^^;

さらに、この場所「東京都と埼玉県の境未確定地域」にも隣接してます→コチラの記事

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2017年5月16日火曜日

松戸の17世紀からあった村が江戸川に消えた【外河原村】

『ダムの底に沈んだ村』という話を読んだり聞いたりして、故郷が開発のために犠牲となって消えてしまうとはいかばかりか・・・と思いを馳せたりするのですが、それらの多くは山間部の集落で、まさか松戸でそんなことはあるまいと想像だにしなかったワタクシ・・・

ところが松戸にも江戸川に消えた村があったのですよ!
その名は『外河原村[とがはらむら]』!!

今の松戸のどこに、そんな運命にあった村があったかといいますと、現在の場所でいえば三郷市の江戸川河川敷<サンケイスポーツセンター>あたりから松戸市側の<まこも池緑地>付近あたりまでだそうでございます。
現在でも<まこも池緑地>あたりは『外河原[そとがわら]』という地名ですが、これが現在”そこに外河原村があった”という唯一に近い痕跡。

『外河原村』は、いつの頃からあった村かは完全に調べきれてないのですが、少なくとも元禄絵図(1702年)には、その名前が見られますのでそれ以前には成立していた集落と考えます。
元禄図を見ると新田を除けば、北に現流山市の”木村”、東に”馬橋村”南に”古ケ崎村”の江戸川沿いの広やかな村落だったんでしょうね^^;

国立電子文書書館 デジタルイアーカイブから

はっきりその村域が確認できるのは明治初期の地図でして、今の感覚でいうと三郷側に近い江戸川の中洲と現在も残る<まこも池緑地>周辺が、その村域だったようでございます。

外河原村の名前が示すように、村の外から見た視点として江戸川自然堤防の外にある村であり(このような条件の悪いとこに村が出来た理由がありそう)、元禄図によると周囲の村がだいたい100石前後の取れ高があるのに、外河原村はわずか11石!
水害には相当悩まされた場所だったんだろうと考えられるのです。

明治迅速地図より
位置関係をわかりやすくするため現在ランドマーク記入(同上)

この『外河原村』、1899年(明治22年)の町村制施行で馬橋村に含まれることになるのですが、運命が変わるのはその後、

明治の江戸川河川改修で外河原村ほぼ全域が、河川敷と江戸川本流の土地として接収され、
すべてが取り壊され、川と土手にされてしまうのです。
外河原村が消えた後の地図 明治期(出典同上)


また、この時に江戸川本流を県境としたため、三郷側河川敷となった土地も埼玉県に移ったようでございまして、松戸側にのこったのは現在の<まこも池緑地周辺>のみとなったようでございます。

ほんとにね・・・いくら治水とみんなの利益の為とはいえ、
先祖代々守ってきた・・・生まれ育った村が跡形もなく壊されて、川底に沈められるってのは想像を絶する悲しみだったんだろうなと・・・・
まさか松戸でこんなことがというお話しでした^^;


最後に外河原村のその後がわかる地図のGifアニメなんぞを載せておきます。


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