仕事で使うことはあまりなく、遊びに行く時使うのがメインなのでご機嫌な道なのですが、ちょっと冷静に考えると”ムムッ??”と思うのですね^^;
なんで”流山街道”なのだ???( ˘•ω•˘ ).。o
相変わらず面倒くさい性格で申し訳ないのですが^^;、街道の名前付けって”水戸街道””日光街道””佐倉街道”など、その道の目的地(終点)が使われることが多いはずなのです(東海道とか中山道は違いますが^^;)。
翻って『流山街道』を考えてみますと、流山街道[県道5号線]というのはこの辺りの住民の感覚として”松戸と野田をつなぐ道”なのですよ。
つまり、先程の名付けルールに則ると『野田街道』と呼ばれるべき道になるべきなのですよね^^;(実際に県道5号線の名前は「松戸野田線」となっております^^;)
「それは、流山が素晴らしいからそう呼ばれたんだよ!君ぃ!」って、流山の人は言うかもしれませんが、それじゃワタクシの変態好奇心は納得しないわけで・・・む~んむ~ん、気になる^^;調べましょう!!
流山街道/県道5号線標識(Google Earthから) |
流山旧街道のルートというのは、松戸~流山間はほぼ変わらないのですが、その先、三輪野山から初石に向かい現在の柏市西原あたりで『日光東往還(日光街道)』につながっていたらしいのですよね(ほぼ現在の流山警察署前の道沿いだと思って良い^^;/※諸説あって、金比羅様を経由し現代の江戸川台駅周辺(上新宿村)で日光東往還に繋がってたとという説もありそうです)。
『日光東往還(日光街道)』というのは現在の南柏(日光街道入口)から、野田市の山崎を経て関宿~結城~日光街道本道とつながる官道(宿場が整備された街道)でして、これ以北はこの『日光東往還(日光街道)』が、現在の野田や流山市域の南北をつなぐメイン道路だったようでございます^^;
つまり・・・・雑に言えば『流山街道』の終点は流山だったわけですね^^;それ以北の野田・関宿方面への陸上交通は、『日光東往還(日光街道)』が担っていたと考えてよろしいかと^^;(もちろん、昔から村々を繋ぐ道はあったでしょうけど)
ところが戦後、県道5号線(松戸野田線+旧有料道路)が整備されまして、松戸~流山間が旧来の流山街道と重なったため、その名称が引き続き使われ・・・さらに、1988年に千葉県が県道5号線(松戸野田線)の千葉県道路愛称名として『流山街道』に決めたことで、現在の一般的な認識が確定したようでございます^^;ちなみに・・・・三郷・吉川あたりでは県道29号線(草加流山線)を【流山街道】と呼ぶ方もいるそうです^^;
江戸川沿いに伸びる流山街道(Google Earthから) |
あ~やっとすっきりした^^;
しかし・・・今度は『日光東往還(日光街道)』というのが流山市市域の大改造でどうなったのかしらんと?気になってまいりました←面倒くさいヤツ^^;
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はじめまして。流山街道を調べていてここに辿り着きました。
返信削除以下のHPを見ると柏駅の前から流山に向かう街道も流山街道と言ってたんですかね
でも「松戸から柏を経て、流山、野田に続いていた。」というのが良く分からないんですよね。「柏から松戸を経て流山、野田に続いていた」ならまだ分かるのですが
https://smtrc.jp/town-archives/city/kashiwa/index.html
GMさん、コメントありがとうございます^^;
削除ワタクシの乏しい記憶で間違ってる可能性もありますが、流山街道という呼び方は"流山に行く道"ぐらいに捉えたほうが良いかと思います。
「松戸から柏を経て、流山、野田に続いていた。」という記述はワタクシもよくわかりませんが、柏から流山に通っていた道となると「うなぎ道」と呼ばれた道をまず思い出します。(下記昔話”戸張から、高田を通って加村河岸”という記述)
http://www.city.kashiwa.lg.jp/soshiki/280400/p001532.html
日光東往還(いわゆる日光街道)は、ほぼ野田線ルートなのでご指摘の記述にはあたりませんよねぇ・・・う~む^^;
返信ありがとうございます。
削除そうですね、確かに流山に向かう道ということだったんでしょうね
引き続き調べていたら、足立区から流山に向かう道も流山道と言っていたようです。流山は日光や成田に向かう中継地みたいな役割だったのかもしれませんね
https://blogs.yahoo.co.jp/hokima2010/8764912.html