2018年3月15日木曜日

マツドの”ド”!②【誰が最初に松戸と呼んだのか?^^;】

前回、松戸の【戸】のほうに地形の特徴を表す意味がある・・・ってとこまで、たどり着いてニヤニヤした所で終わった”マツドのド”ってエントリーなんですが・・・

じゃ、最初にどんな人たちがこの地名をつけたんでしょうね?^^;
ってのが今回のテーマ。

尚、以下文献等をあまり辿ってはおらず、基本的に推測で書いておりますので、そのことお含み置きを^^;
現在ではここが”戸”で河が狭まっていたといわれても面影もありませんが・・・
三郷市域と矢切も水の領域と想像するとそうなのかなとも・・・^^;

地名というのは、本来シンプルで感覚的なもので”皆が会話の中でそう呼び習わすことで、定着していった”ってのがありがちなパターン。

そう考えてみると、松戸市役所がWebで書いている『馬津郷』という由来は、産物と地の特質は表してますが、どこか衒学的で”後世の賢い人がいかにももっともらしく 格好をつけて 考えついたのかしらん?”とも思ったりします。

じゃ、最初に松戸を”松の戸”って呼び始めたのは誰なのかしらん?と妄想を膨らませてみると
恐らくは平安後期~鎌倉・室町期にかけて今の松戸~葛飾~江戸川区あたりを活動領域にしていた船人たちなんだろうなと・・・・

ほとんど想像で書きますが、太古から武蔵野台地(今の王子~湯島~皇居のライン)と下総台地(野田~松戸~市川のライン)の間の土地というのは巨大な湿地帯、いわば水の領域だったと思われます。

水色以下の部分は全部湿地で水の領域だったのだろうと・・・
(ただし、江東区あたりがおもいっきり下がってるのは近代の地下水組み上げのせい)
そんな不毛の地になんとか人が住めそうな乾いた場所が出来てきたのが平安後期から鎌倉時代。
海の砂を押し戻す力と川の土砂を運ぶ力があいまって、海際から徐々に乾いた土地が形成されはじめ、豊嶋氏の分かれでもある葛西氏が今の葛飾区南部~江戸川区あたりで勃興するわけです。
しかし、なんとか人が住み始めたと言っても、決して耕作には適さぬ地。恐らく漁業と細々とした水運が生業だったと思われるのですよね。

で・・・そんな船人たちに大切だったのが、水陸を含めた地形。
「あそこの戸」「こっちの岬」「南の瀬」「東の根」などいろいろ呼び習わす間に様々な地名が船人たちが往来するエリアについていったんじゃなかろうかと^^;

松戸市域に限ってみてみても「根」だの「崎」だの「瀬」だのと水由来らしき地名が台地の縁にいっぱい残ってますし、『戸』に話題を戻しても周辺にも「奥戸」「青戸(青砥)」などが地名として残っているわけなんです^^;(亀戸は井戸由来なので別らしいです)

治水の進んだ、江戸時代の隅田川でも
この水郷ぶりですから^^;
たばこと塩の博物館webから)

松戸というのは・・・たぶん”戸(河が狭くなってる所)”にでかい松でも生えていて、
最初は船人たちが目印として「あの松の生えてる戸」と呼んでたのが【松戸】になったんじゃなかろうかと^^;

狭義の意味での松戸は治水技術が弱かった時代米作には適さなかったはずなので、そう船人達が呼んでいた地がいきなり勃興したのは、そのはるか先。
江戸に幕府が開かれ、利根川東遷が行われ、水戸街道が通り、宿場町が形成される江戸時代を待たなければならなかったんだろうと妄想するわけです^^;





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