2018年5月21日月曜日

松戸の一部は、元三郷(。・_・。)【江戸川流路変更で真っ二つにされた樋野口村】

江戸川の流路変更や治水整備はいろんなドラマをはらんでいるようでして、過去にも「河川敷整備で消えた外河原村」とか「江戸川の向こう側も元流山」の話を書いたのですが、現在の三郷⇔松戸においても似たようなことがあったようでございます。

今の地名で感覚で言えば”元三郷”だったのが、現在の松戸市”樋野口”
享保年間(江戸時代中期)まで、江戸川の西岸だったらしいのですよね。(。・_・。)

今も残る松戸側の【樋野口】


既に三郷市側では【樋野口(樋ノ口)】という地名自体なくなってしまっていて、『樋野口稲荷神社』ぐらいしか痕跡を留めてないのですが、亨保年間(江戸時代中期)までは上の地図の樋野口の右側のラインの形で江戸川が曲がっていたそうでして、現在は松戸市に含まれる樋野口まで下総国北葛飾郡樋野口村(江戸川西岸)だったそうでございます。

しかし、河が大きく蛇行してるということは浅くなりやすく、また増水時には水害の危険も高くなるわけでして亨保年間(江戸時代中期)に、まず樋野口村をばっさり二分化する形で江戸川を直線化。元の流路は船溜まりとしてその後も使っていたようで、船溜まりがあることも一因して松戸が船着き場としても栄え、平潟遊郭も形成されたようです(駐車場があるとお店に人が集まりやすいのと同じ理屈ですね^^;)。

明治迅速図
明治迅速図での樋野口村(江戸川を挟んで両岸にあります)

んが・・・江戸川に二分割された後も領域としてはあいかわらず樋野口は下総国北葛飾郡(つまり三郷側)に含まれたままだったそうで、東葛飾郡(つまり松戸側)の明村(今の上本郷から古ヶ崎一帯)に編入されたのは1905年(明治38年)といいますから、近代に入ってからなんですよね^^;

三郷側(江戸川西岸)に残された樋野口村の領域はといいますと、その後明治期に八木郷村に、昭和の戦中に東和村となり、1956年の三郷市誕生で三郷市に含まれたそうです。
三郷側(江戸川西岸)で樋野口の地名が消えたのは、1982年の町名地番整理といいますからつい最近なんですよね^^;

こういうのを調べると昔の人の尋常ではない土地への執着を強く感じるわけで
市や県の境界線がぐにゃぐにゃなのも、さもありなんって思ったりするのです^^;

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