では、この文の本来の主役^^;
江戸川はその頃どんな状態であったろうかといいますと
渡良瀬川の下流として「太日川(ふといがわ)もしくは、庄内川」という名前で既に(場所によって今より少し西側を)流れていたのですよね^^;大きな支流といえば、茨城方面から流れてくる思川だけですし、下総国・武蔵国の国境にもならなかったわけですから、それほど大きな川でなく、普段は所々に州やせせらぎのある中規模の川だったと思われます。
現在の渡良瀬川(足利市周辺) |
関八州時代の【荒川西遷】【利根川東遷】発想というのは、いわば今の中川に集中する大河(荒川・利根川)を分散させ江戸の東側をなんとかしよう(無論それ以外にも中流域の灌漑とか治水もあるわけですが)というのが狙いですから、実は利根川東遷というのは当初は、この太日川に利根川を落とし込むつもりだったと思われます(実際に一時期はこのルートを利根川が流れます)
ところがところが・・・時代の波は大きくうねり
徳川家は、武家の棟梁に押し上げられ幕府を開府。
江戸は天下の中心とあいなることとなりました。
こうなると徳川家の視点も関八州から、全国を睨むものに変わります。江戸の都市計画も天下の治所としての色彩を帯びてくるわけですね^^;国土交通省 関東整備局 荒川上流事務所 WEBから http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo00031.html |
【荒川西遷】プロジェクトの方は、現在の行田あたりで荒川を入間川(現在の隅田川)に落とし込む目論見でしたので城下下町の水流も増え江戸の都市計画にもかなってますので、たぶん着々と準備が進んだであろうと・・・。
反面、【利根川東遷】もからみ、問題視されたのが東北太平洋沿岸からの物資輸送です。
この当時の沿岸航法では、東北方面から房総半島をグルリと回って今の東京湾に入る航路が、潮の関係で危険とされてまして、石巻あたりから出た船は那珂湊で行き止まり、あとは江戸まで陸送していたらしいのですが、天下の治所となるとそうもいかない^^;
陸送で特に困るのが、かさばる米と材木(筏にして運んだりもしていた)でして、江戸がどんどん発展して需要は無尽蔵なのに陸送ではまったく間に合わない・・・・
幕府開府後、関東代官頭に命じられた伊奈忠次を始めとして幕閣こぞって絵図を睨み頭を悩ませたと思われます。
そして目につけたのが、銚子から関宿まで延々と繋がる常陸川でつながった湿地帯。
「関宿まで利根川を繋げ銚子に落とし込み、太日川を通じ江戸に運び込むのは如何であろう?」とまぁ・・・いつかは誰かが思いつく発想ですね^^;
こうして【利根川東遷】は、流れを東にずらすどころか河口を東京湾から銚子に変える超ビックプロジェクトになったわけでございます。
またまた次回へ続きます^^;
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