現在の江戸川(流山市 加付近) |
この記事を書いてると、やたら”付け替え”だの”落とし込み”って言葉が出てまいります^^;
これはこの時代の土木の技術のせいでして、今だったら浚渫(水の底を掘って深くする)というやり方もあるんですが、これがこの時代は難しい。人件費はタダみたいなものなんですが、全て人力なので水の中をいじくることはあまりしないのですよね。
既存の流れを深く掘り直したりするなら(やってるそばから、水が動いて埋まってゆくので)、それよりも水のないところをワッセワッセと掘って(露天掘り)”付け替えた方が楽”という発想だと思われます。
さて・・・幕府が開府されて落ち着いてくると
関東入府から、幕府開府にわたって考案された忠次の構想がいよいよ実を結び始めます。
この間に関東代官頭は息子”忠治”に引き継がれ(実際は3代目)ているのですが、まさに八面六臂!主な業績だけでも・・・・【伊奈忠次】
1590年~備前検知(伊豆・武蔵・相模など)
1592年 文禄・慶長の役では大軍を動かすための小荷駄による兵粮の輸送
1594年 千住橋架橋
1596年~ 備前堤築堤
1600年 関ヶ原小荷駄奉行。
1610年 没
【伊奈忠治】
1621年 新川通開通、権現堂川拡幅。太日川利根川の下流に
1621年 赤堀川開削開始
1628年 中山道移設
1629年 荒川西遷
1629年 鬼怒川・小貝川分流
1630年 新綾瀬川開削
1635年 赤堀川開削失敗、再開削へ。
1641年 江戸川開削
1653年 没
【忠治以降】
1654年 赤堀川開通、利根川東遷(一次完了)
1665年 逆川開削(銚子~関宿~行徳ルート開かれる)
http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo00031.html から |
測量をし、設計絵図を描き、関係する領主や村々を説得し、人足や工事資材の手配をし・・・もちろん下僚を使ってやって入るんでしょうが、よくもまぁこれだけのプロジェクトを平行してやったものだなと^^;
で・・・本題に戻りまして・・・ワタクシたちの今の江戸川が今の姿になるコトの起こりが・・・
1621年、新川通が開削され太日川(庄内川)が利根川の下流になった時のことだと思われます。
推測するに、付替えが終わり利根川の下流となった太日川(庄内川)を伊奈忠治を含む幕閣が巡視に来たと思われます^^;
そして、その流れを見て恐らくこういう発言があったのではないかと・・・
この河は、四季を通じて船が遡れるかの?
これこそが、今の江戸川誕生のきっかけだったと思われるのです^^;
<こんな記事も書いてます(。・_・。)>
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