2017年4月29日土曜日

この河は船が遡れるかの?【江戸川奇譚③】

現在の江戸川(流山市 加付近)
前回までのお話は、関八州を得た徳川家が、伊奈忠次に関東の治水を命じ、利根川荒川の分割を構想。更に徳川家が幕府となり江戸が天下の中心となることで利根川東遷の意義に東日本からの物流の目的が加わり・・・・というトコロまででしたが^^;

この記事を書いてると、やたら”付け替え”だの”落とし込み”って言葉が出てまいります^^;

これはこの時代の土木の技術のせいでして、今だったら浚渫(水の底を掘って深くする)というやり方もあるんですが、これがこの時代は難しい。
人件費はタダみたいなものなんですが、全て人力なので水の中をいじくることはあまりしないのですよね。

既存の流れを深く掘り直したりするなら(やってるそばから、水が動いて埋まってゆくので)、それよりも水のないところをワッセワッセと掘って(露天掘り)”付け替えた方が楽”という発想だと思われます。

さて・・・幕府が開府されて落ち着いてくると
関東入府から、幕府開府にわたって考案された忠次の構想がいよいよ実を結び始めます。

この間に関東代官頭は息子”忠治”に引き継がれ(実際は3代目)ているのですが、まさに八面六臂!主な業績だけでも・・・・
【伊奈忠次】
1590年~備前検知(伊豆・武蔵・相模など)
1592年 文禄・慶長の役では大軍を動かすための小荷駄による兵粮の輸送
1594年 千住橋架橋
1596年~ 備前堤築堤
1600年 関ヶ原小荷駄奉行。
1610年 没
【伊奈忠治】
1621年 新川通開通、権現堂川拡幅。太日川利根川の下流に
1621年 赤堀川開削開始
1628年 中山道移設
1629年 荒川西遷
1629年 鬼怒川・小貝川分流
1630年 新綾瀬川開削
1635年 赤堀川開削失敗、再開削へ。
1641年 江戸川開削
1653年 没
【忠治以降】
1654年 赤堀川開通、利根川東遷(一次完了)
1665年 逆川開削(銚子~関宿~行徳ルート開かれる)
http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo00031.html から

測量をし、設計絵図を描き、関係する領主や村々を説得し、人足や工事資材の手配をし・・・もちろん下僚を使ってやって入るんでしょうが、よくもまぁこれだけのプロジェクトを平行してやったものだなと^^;


で・・・本題に戻りまして・・・ワタクシたちの今の江戸川が今の姿になるコトの起こりが・・・
1621年、新川通が開削され太日川(庄内川)が利根川の下流になった時のことだと思われます。
推測するに、付替えが終わり利根川の下流となった太日川(庄内川)を伊奈忠治を含む幕閣が巡視に来たと思われます^^;

そして、その流れを見て恐らくこういう発言があったのではないかと・・・

この河は、四季を通じて船が遡れるかの?
これこそが、今の江戸川誕生のきっかけだったと思われるのです^^;


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2017年4月27日木曜日

こんな視線ですが飲みますか?^^;【常磐線車内飲酒】


なんか、常磐緩行線の車内で椅子に向かって立ち小便した馬鹿が居たそうで・・・「春になるとネジの外れた人が出るな┐(´д`)┌」と思う今日このごろですが・・・こういう特殊例は裁きを待つとして、これで思い出したのが・・・

常磐線中距離電車車内飲酒問題^^;

もうね・・・他のエリア居住の知り合いなんかにも「常磐線ってみんなお酒飲んでるよね!」っていわれるぐらい、感覚的には多いわけでして・・・中距離電車だけでなく、時々快速電車でも見かけるんですよね^^;

『上野駅の9~12番線には、酒の飲みたくなる呪いでも掛かってるのか?』って検証したくなるぐらいなんですが・・・^^;

個人的な感想は別として、世の中的にどう思われてるのか知りたく、調べてみましたら「しらべぇ」というコンテンツでネットアンケートの結果が出ておりました^^;
http://sirabee.com/2016/01/08/74912/ から

男だけが、年食うと酒に甘くなるって傾向が
如実に出ちゃってますね^^;

逆に女性は不快度が上がっていて、年とともに評価が別れる行動なんですね^^;
ともあれ・・・一番少ない60代男性でも「6割が不快」って結果ですから、世の中的には、ほぼNG行為で、顔をしかめられる行為ってことになるんでしょうねぇ・・・


最近、常磐線の中距離電車で飲まれてる方も、世の中の冷たい視線を感じてか”コンビニ袋で隠しながらコソコソ飲んでたりする”んですが、多少の気遣いはわかるのですが不快の元が”ニオイ”ですので、あまり効果はないんじゃないだろうかと^^;

ちなみに、ワタクシの個人的感覚では”クロスシート車(ボックスシートがあるやつ)は多少は許せる気もするから、ロングシート車では禁酒して”って感じでしょうか^^;

でもまぁ、こういう社会の視線ですので
そろそろ上野駅の9~12番線で酒売るのやめてくれませんか?>JR様
(あったら習慣で飲みたくなるってのもあるでしょから^^;)



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2017年4月26日水曜日

江戸川で物流をも変えよ【江戸川奇譚②】

前回、徳川家が関八州の治所として江戸を開府し、その東側の水の害を取り除くため命を受けた伊奈忠次が【荒川西遷】【利根川東遷】を思いついたであろうというとこまで書いたのですが・・・

では、この文の本来の主役^^;
江戸川はその頃どんな状態であったろうかといいますと

渡良瀬川の下流として「太日川(ふといがわ)もしくは、庄内川」という名前で既に(場所によって今より少し西側を)流れていたのですよね^^;
大きな支流といえば、茨城方面から流れてくる思川だけですし、下総国・武蔵国の国境にもならなかったわけですから、それほど大きな川でなく、普段は所々に州やせせらぎのある中規模の川だったと思われます。

現在の渡良瀬川(足利市周辺)

関八州時代の【荒川西遷】【利根川東遷】発想というのは、いわば今の中川に集中する大河(荒川・利根川)を分散させ江戸の東側をなんとかしよう(無論それ以外にも中流域の灌漑とか治水もあるわけですが)というのが狙いですから、実は利根川東遷というのは当初は、この太日川に利根川を落とし込むつもりだったと思われます(実際に一時期はこのルートを利根川が流れます)

ところがところが・・・時代の波は大きくうねり
徳川家は、武家の棟梁に押し上げられ幕府を開府。
江戸は天下の中心とあいなることとなりました。

こうなると徳川家の視点も関八州から、全国を睨むものに変わります。江戸の都市計画も天下の治所としての色彩を帯びてくるわけですね^^;

国土交通省 関東整備局 荒川上流事務所 WEBから http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo00031.html

【荒川西遷】プロジェクトの方は、現在の行田あたりで荒川を入間川(現在の隅田川)に落とし込む目論見でしたので城下下町の水流も増え江戸の都市計画にもかなってますので、たぶん着々と準備が進んだであろうと・・・。

反面、【利根川東遷】もからみ、問題視されたのが東北太平洋沿岸からの物資輸送です。
この当時の沿岸航法では、東北方面から房総半島をグルリと回って今の東京湾に入る航路が、潮の関係で危険とされてまして、石巻あたりから出た船は那珂湊で行き止まり、あとは江戸まで陸送していたらしいのですが、天下の治所となるとそうもいかない^^;

陸送で特に困るのが、かさばる米と材木(筏にして運んだりもしていた)でして、江戸がどんどん発展して需要は無尽蔵なのに陸送ではまったく間に合わない・・・・

幕府開府後、関東代官頭に命じられた伊奈忠次を始めとして幕閣こぞって絵図を睨み頭を悩ませたと思われます。
そして目につけたのが、銚子から関宿まで延々と繋がる常陸川でつながった湿地帯。
「関宿まで利根川を繋げ銚子に落とし込み、太日川を通じ江戸に運び込むのは如何であろう?」とまぁ・・・いつかは誰かが思いつく発想ですね^^;

こうして【利根川東遷】は、流れを東にずらすどころか河口を東京湾から銚子に変える超ビックプロジェクトになったわけでございます。

またまた次回へ続きます^^;

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2017年4月25日火曜日

関東千年をデザインした男【江戸川奇譚①】

東葛エリアに住んでおりまして、地元をテキトーにブラブラしながら、思いついたいろんな疑問を調べておりますと必ずブチ当たるのが『江戸川とはどんな川か?』という疑問でございます。
現在の関宿 利根川と江戸川の分流点

今の姿だけ見てしまえば”利根川から分流し東京湾に注ぐ川”ってコトになるんですが、そもそも利根川自体が江戸初期に大きく姿を替えており(利根川東遷)それに付随して江戸川もその有り様を大きく替えてきてるのですよね^^;

いろんな説を調べてみますと
”江戸川は人工河川説”も結構ございまして

結構な人の興味を掻き立て、いろいろ書かれている川なんですよね。

ということで今回から数回に分けて、江戸川の成り立ちってモノを、ワタクシなりに探ってみようかなと^^;・・・尚、一応裏付けを取りつつ書き進めてはゆきますが、はるか昔の出来事でございますから、真偽ははるか時代の向こう・・・”そういう事もあったかもね”ぐらいで受け止めていただければ幸いでございます^^;

【コトの起こりは、江戸開府2大プロジェクトから?!】

関東農水局WEBから http://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/tamen/03_1.html
コトの起こりは、江戸幕府が開かれる以前、徳川氏の江戸入府にはじまります。
東海五カ国と引き換えに、関八州に移され、居城を江戸と定めた徳川氏。
武蔵野台地の東の端に建てられた江戸城に入るのですが、広域で見ると城の東側(武蔵国と下総国の境)がなんとも具合が悪い^^;

江戸城のある武蔵野台地を西側として、ワタクシたちが住んでいる市川・松戸・流山の下総台地まで延々と湿地帯が広がってるわけですな^^;
なにせ、その湿地帯を延々と苦労して歩いて、やっと茨城に入ると乾いた地面があるので思わず”常に陸がある”常陸国(ひたちのくに)って名前をつけたぐらいびっちょびちょ。

古い名前を書き連ねるとわかりづらいんで、今の名前で書いてゆきますが、利根川と荒川が今の吉川あたりで合流(現在の中川)し、荒川・足立・葛飾・江戸川・江東区あたりを蛇がうねるようにグズグズダラダラ流れてまして、川以外もそのほとんどは一面の脛まで泥に浸かる葦原、ほんの少しの乾いた部分(台地)に寒村と漁村がポツンポツンとあるとんでもない場所だったんですね。

今も残るウネウネ中川の跡
北条氏支配の関東の片田舎だった頃はそれでよかったんですが、今回は関八州の治所となる大切な地域「あの地の水を抜き、美田に仕立て、水の害を取り除け!」とかなんとかきっと命令し、それを実現しなきゃいけなくなったのが伊奈忠次という内治派の家来だったらしいのでございます。

ダンプカーもブルトーザーもない時代。
命じられた伊那氏は最初は堤を高くし、灌漑を整備することでなんとかしようと考えたと思います(手間もそれほどかかりませんしね^^;)。
でもね・・・・きっと土地の古老の話やいろんな記録を漁るうちに、なにせ関東の2大大河が合わさって流れてるところだから、台風とかで増水しようものなら多少の堤なんぞひとたまりもなく、それじゃどうしようもないって考えに至るわけです。


そして改めて、解決のヒントを求めて関東全域を歩くうちに、関東の川のある特徴に気づいたんじゃないかと・・・・

すなわち・・・・関東の川って山から流れでた後、中流の熊谷~古河ラインで一回落ち着いて、再びそこから東京湾に向かって流れ出すっていう特徴があるのですよね。

ならば・・・下流の堤を整備して水を無理やり治めるのでなく、中流で流れを替えてしまい中川に落とし込むことを廃せば良いのではないかと。

こうして構想されたのが、
2大大河を西と東に分けて落とし込む
【利根川東遷】【荒川西遷】の
2大ビッグプロジェクトだったわけで
ございますな。



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2017年4月22日土曜日

流山・三郷・松戸 3市を結ぶツツジ愛【3市揃って市の花の”ツツジ”】

いわゆる”市の花”というものがありまして、何らかのゆかりがある品種やその地域でしか見れないモノ、市民が親しんでる品種が設定されているのですが・・・^^;

ワタクシのブラブラ行動圏で”どんな花を設定してるのかな~??”って調べましたら
なんと!松戸・流山・三郷の3市が、
【ツツジ】を市の花として制定した
仲間でございます^^;

確かに!このエリアをぶらぶらしておりますと道路脇の植え込みから始まって、いろんな施設やマンションの植栽、公園のの木々など至るとこでツツジは見かけますし、目を楽しませてくれます^^;

そこで今回は、あくまでも私見で【CAZ版3市のツツジポイント】をご紹介してみようかと^^;これからGWにかけて足を延ばすのもいいかもですよ^^;


【その① 流山:東福寺のツツジ


南流山駅を背にして、宮園方面に歩いてゆき歩道橋を越え坂を登ってゆきますと、左手に宮脇書店が見えてきたあたりで左側に『丘一面ツツジ』の東福寺のツツジが見えてきます。
来た道から1本奥の東福寺寄りの裏参道に入りますと、見上げるほどのツツジの壁!
晴れた日、バックが青空の時が最もオススメです^^;



【その② 三郷:二郷半用水緑道のツツジ

三郷市観光協会Webから http://www.misato-city.com/hana_goyomi.html
ツツジの生け垣が3段になって500mも続く遊歩道になっております。
場所がわかりづらく駅から結構あるのが難点ですが、サイクリングとかの途中に立ち寄ると素敵な体験ができるかも^^;
”新日本歩く道紀行「水辺の道100選」”に認定されたそうです。



【その③ 松戸:戸定館のツツジ

コチラは、ツツジ単体というよりもツツジを含んだ庭園美と晴れた日だと富士山まで望める借景を楽しむ世界。もちろん公園内には、その他のツツジもキレイに咲き誇っております(確か、同時期に藤のイベントもやっていたはず)。 



【番外 野田:清水公園のツツジ】

やっぱり、近隣でツツジといえばここは外せない^^;
歩道とかかで咲いてる植栽のイメージでここのツツジを見ると、その木の大きさや色のバリエーションに驚かされます。新緑の時期とも重なりますから、ほんと緑の息吹と花を満喫できます^^;


ちなみにツツジの花言葉は「節度」「慎み」だそうでございます^^;
3つの市のイメージにもあってるのかな???

ツツジは身近なので隠れた名所がいっぱいありそう^^;
”ここ良いよ!””ここが凄い!”と
いうのがあったら
ぜひ教えて下さいませ!! (੭ ˃̣̣̥ω˂̣̣̥)੭⁾⁾

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