2017年5月16日火曜日

松戸の17世紀からあった村が江戸川に消えた【外河原村】

『ダムの底に沈んだ村』という話を読んだり聞いたりして、故郷が開発のために犠牲となって消えてしまうとはいかばかりか・・・と思いを馳せたりするのですが、それらの多くは山間部の集落で、まさか松戸でそんなことはあるまいと想像だにしなかったワタクシ・・・

ところが松戸にも江戸川に消えた村があったのですよ!
その名は『外河原村[とがはらむら]』!!

今の松戸のどこに、そんな運命にあった村があったかといいますと、現在の場所でいえば三郷市の江戸川河川敷<サンケイスポーツセンター>あたりから松戸市側の<まこも池緑地>付近あたりまでだそうでございます。
現在でも<まこも池緑地>あたりは『外河原[そとがわら]』という地名ですが、これが現在”そこに外河原村があった”という唯一に近い痕跡。

『外河原村』は、いつの頃からあった村かは完全に調べきれてないのですが、少なくとも元禄絵図(1702年)には、その名前が見られますのでそれ以前には成立していた集落と考えます。
元禄図を見ると新田を除けば、北に現流山市の”木村”、東に”馬橋村”南に”古ケ崎村”の江戸川沿いの広やかな村落だったんでしょうね^^;

国立電子文書書館 デジタルイアーカイブから

はっきりその村域が確認できるのは明治初期の地図でして、今の感覚でいうと三郷側に近い江戸川の中洲と現在も残る<まこも池緑地>周辺が、その村域だったようでございます。

外河原村の名前が示すように、村の外から見た視点として江戸川自然堤防の外にある村であり(このような条件の悪いとこに村が出来た理由がありそう)、元禄図によると周囲の村がだいたい100石前後の取れ高があるのに、外河原村はわずか11石!
水害には相当悩まされた場所だったんだろうと考えられるのです。

明治迅速地図より
位置関係をわかりやすくするため現在ランドマーク記入(同上)

この『外河原村』、1899年(明治22年)の町村制施行で馬橋村に含まれることになるのですが、運命が変わるのはその後、

明治の江戸川河川改修で外河原村ほぼ全域が、河川敷と江戸川本流の土地として接収され、
すべてが取り壊され、川と土手にされてしまうのです。
外河原村が消えた後の地図 明治期(出典同上)


また、この時に江戸川本流を県境としたため、三郷側河川敷となった土地も埼玉県に移ったようでございまして、松戸側にのこったのは現在の<まこも池緑地周辺>のみとなったようでございます。

ほんとにね・・・いくら治水とみんなの利益の為とはいえ、
先祖代々守ってきた・・・生まれ育った村が跡形もなく壊されて、川底に沈められるってのは想像を絶する悲しみだったんだろうなと・・・・
まさか松戸でこんなことがというお話しでした^^;


最後に外河原村のその後がわかる地図のGifアニメなんぞを載せておきます。


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2017年5月12日金曜日

命の息吹の祭典!【流山 理窓会記念自然公園】

タイトルに”の”が重なってて、文章書きとしては問題だな・・・という自嘲はとりあえず置いといて^^;



今年(2017年)のGWは我がエリアはお天気にも恵まれまして、最終日の5/7に『理窓会記念自然公園』まで新緑を楽しみに行ってまいりました^^;

新緑の淡い緑と青空のコントラストが目に優しく、日頃PCのモニターばっかり睨んでるワタクシにゃ”最高のサプリだなぁ”とか思いつつ、公園内をブラブラしてたんですが・・・・

ひょうたん池まで来ると、水面にデカイ黒いシミが・・・・


最初は”底に黒く見える落ち葉でも溜まってるのかな~”ぐらいに思ってたのですが、よっく見るとなんか動いてるように見えます^^;
”水の流れにしちゃちょっとおかしいぞ??”と思い近づいていきますと・・・・

なんとオタマジャクシの大群!!
「何万匹いるんだ??」ってぐらい泳いでおります!

写真だとわかりにくかな?冒頭の動画だとよくわかります^^;

田んぼとか水路で数匹とか(それさえ近所ではあまり見かけられなくなりましたが・・・)、ちょっとした池とかで数十~百ぐらいなら見たことあったんですが、水面を真っ黒に染めるほど密集ってのは初めてでございます。

ここまでたんまり密集ってことは、これをプリプリ産卵する親カエルさんもしっかり冬を越せるこの公園の環境があってこその出来事^^;
この子達が、全員大人カエルにはなれないのでしょうが、オトナになったらさぞかし立派な大合唱が聴けるんじゃないかとワクワクしますね^^;

ちなみに「理窓会記念自然公園」は、最低限の整備に押さえてあって公園内街灯もないし、通路も未舗装、トイレも整備されてません。たぶん、ヘビや蜂もいるでしょう^^;
これからの季節、肌を露出してれば蚊にも喰われるでしょう^^;

んでも、だからこそ素晴らしいので、
是非このままの形で、いつまでも楽しませてくれたらなと思うのです^^;


【流山 理窓会記念自然公園】

東武アーバンパークライン 運河駅下車 徒歩15分


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2017年5月9日火曜日

江戸川土手あたりでClover祭り開催中^^;【3色あるよ!】

え~・・・・祭りと書きましたが別に縁日やってるわけではございませんで・・・一気に花が咲いてますよって話なんで、あんず飴とか期待しちゃった人はごめんなさい^^;

んでもって・・・・^^;
クローバーって3色身近に見れるんですね^^;

一番ポピュラーなのは、白いクローバー(シロツメグサ)、次にみかけるのが赤いクローバー(ムラサキツメグサ)^^;
このあたりまでは、花もそこそこデカイし目につきやすいので皆さん”今更何言ってるんだコイツ”状態だと思われますが^^;

実は黄色いのもあって・・・・ドーン!

黄色いクローバー(コメツブツメグサ)!

”そんなの見たこと無いぞ!”って思う方も多いかもしれませんが(ワタクシもこの歳まで気にしたこともなかった)、印象が薄いのも当然で、シロ&ムラサキが指先ぐらいの花を咲かせるのに対して、黄色だけは名前の通り5mm程度のちっちゃい花^^;

江戸川土手とかで”なんかこのあたりだけ黄色くて細かいのがいっぱい♡”と思ってスマホのカメラ突っ込んで撮ったら、コレでして、調べてみたらクローバーの仲間だとわかったわけでございます^^;

こっちはGooglePhotoが勝手に加工してくれたやつ^^;

ちなみにね・・・クローバーって世界最大のハチミツの元となる花で、葉は食べられて、花穂は薬草(強壮剤、痛風の体質改善、解熱・鎮痛効果)にもなるという”どんだけ役立つの!”って思う植物のグループなんだそうでございます^^;

というわけで・・・(←小ネタなので強引にまとめに入る^^;)
たまには知らない花を見つけてみたり、目線以外の場所にスマホのカメラ突っ込んでみますと新しい世界を発見できるかもです^^;


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2017年5月8日月曜日

埼玉南部に支えられた流山のみりん【みりんが生まれたバックボーン】

相変わらず”いい大人”は普通思わないような事を思いついては、Webで調べたり考えたりして喜んでる面倒くさい性格のワタクシですが^^;・・・・

「野田は醤油」で「流山はみりん」

などという話も、聞いた時に「野田は台地で大豆が採れるから醤油」で「流山は平地に近くてお米が採れるからみりん」かな・・・ぐらいで済ませればいいのですが、これだと何か引っかかっちゃうのですよね^^;
マンジョウWebより  https://www.kikkoman.co.jp/manjo/index02.html

マンジョウのWebを見てみると”流山近県で生産されていた名産のもち米とうるち米を使用していた点があげられます。”と書いてあるんですが、『名産のもち米』ってのに引っかかるんです^^;

なんでかっていうと、もち米ってワタクシの知ってる限り結構扱いが面倒くさい稲で、普通のお米の近くで栽培するのもダメ(受粉が混ざって味がおかしくなる)だし、そもそも”うるち米(いわゆる普通のお米)”に較べて収穫率が悪いので、どうせ作るなら”うるち米”を作るはずなのですよね^^;

そうなんですよ・・・なんでもち米作ってたんだ?流山近県!!^^;

『名産』なんていうと聞こえがいいですが、条件的に不利な「もち米」をあえて生産してたってことは、それを作らざる得ない理由があるはずなのですよね。

そこで推測するとマンジョウの上の文言で”近県”って言い方がポイントで、近県っていうコトは”流山でなく、その周辺部”ってことで・・・ご存知のように流山の東側は台地ですから、もち米を作るとなると現在の埼玉側とあいなります^^;

つまり、埼玉南部(三郷~春日部~越谷)あたりに、当時”もち米”を作らざる得ない事情があったんだろうなと^^;


そこで改めて、もち米の栽培上の特質を調べてみますと・・・

  • うるち米と比べ背が高い
  • 早稲収穫が出来る(寒さに強い)
  • 肥料をそれほど必要としない

※品種によっては上記に当てはまらない場合もあります。
太郎兵衛もちの稲穂 http://www.city.koshigaya.saitama.jp/kanko/tokusan/tarobei.html

なるほど・・・低湿地&水害の多い地域にあってるわけですね^^;

背が高いということは、台風なんかの増水にあっても穂が水に浸かりにくわけですし、早稲収穫が可能(寒さに強く、早めに植えて早めに収穫)ってことは、それ以前に台風シーズン前に収穫できるってことです。

肥料(といっても昔なので自然のミネラル主体)においても、河の下流部というのは(森が遠いため)それほど豊富ではありませんから、これも条件合致なわけでございます。

ここまでたどり着いて、三郷の地名を思い出してみると”早稲田”という地名があったり、越谷には”太郎兵衛もち”なる現在でいう糯米のブランド米も存在したそうでございますからフムフムと^^;

考えてみると、マンジョウの創業家「堀切家」は、江戸時代初期は三郷の二郷半用水周辺に住まわれていたとのこと。いろいろと辻褄が合ってくるのでございます^^;

今でこそ、江戸川がデンと横たわって、千葉と埼玉に分かれてますが
葛飾エリア一体となって流山特産のみりんが生まれたのだなと深く感じ入ってみたりするのです^^;




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2017年5月2日火曜日

江戸川は人と出会い生まれる【江戸川奇譚④】

江戸時代の江戸川を描いた浮世絵
船橋市webより http://www.city.funabashi.lg.jp/shisetsu/toshokankominkan/0001/0005/0002/fukeiga6.html

"この河は船が遡れるかの?"

前回、このセリフで3回目を終わらせましたが、この思いこそが現代の江戸川を性格づけるものです。

もう一度、つらつらと書いてきたこの記事の1~3回を振り返れば、江戸開府当時「伊奈忠次」は、江戸城の東側に下総台地まで広がる湿原を使える土地とするため、その中心に流れる大河を分散させ東と西に分けることを思い立ちます(荒川西遷&利根川東遷)。

そして、江戸幕府が開かれ、江戸が天下の中心になることで、その河に『水運』という要素が強く加わり、利根川は東の銚子より関宿を経て東京湾に繋がる一大水路の役割を持たせられたわけでございます。

ところが・・・東京湾側の新しい利根川の流路となった太日川(庄内川)は、元が中規模河川の渡良瀬川下流であったため、底が浅く州やせせらぎのある広がった流れ・・・利根川の水を落とし込んでも荷物を積んだ船が年を通じて行き交う水路には、そのままではならなかったのでしょう。

父忠次の衣鉢を継いだ「伊奈忠治」は、利根川の太日川落とし込み直後から、まず関宿~流山市北部間の台地を貫く河川の改修に取り掛かったと思われます。

平野に流れ込み、自由に広がりうねうねと流れる太日川(庄内川)の流れを捨て、台地を穿ち、なるべくまっすぐに高低差を均し船の通過を可能とする工事です。
この工事は、恐らく太日川への利根川落とし込み直後から測量や村々との調整が始まったと思われますが、具体的な工事は1635年に始まり、1641年に開通したそうでございます。
現在の野田市周辺の台地を貫く江戸川の流路

では・・・ワタクシたちが現在眺めている流山・松戸あたりの江戸川の流路はどうだったのでしょう?果たして人工河川なのでしょうか?^^;

もう一度、現在の地図ですが関東平野南部の土地の高低差が分かる地図を眺めてみますと海抜3m程度の水色の部分が、北は松伏から東京湾まで延々と広がっています。

荒川放水路周辺(葛飾・江東・江戸川区)の海抜0m以下の地域は、大正~昭和期の地下水の組み上げで出来たものですが、それ以外の土地の高さは江戸初期とそれほど変わらないと思います。

そうなんです!水色の土地は全て人の手が加わるまで河の領域だった土地なのですよね^^;

北関東の山々から流れ出た河々は、関東平野の北部を流れ、この湿地帯にぶつかった時、大きく広がり、時に湿地と一体化し、時にうねうねと蛇行しながら、東京湾にゆったり流れ込んでいたのです。

今のイメージで捉えるこの地域の河というものがあっても、それは非常に仮初めの姿で、流路が決まってる時ほど、そこに河の運ぶ土砂がゆっくりたまってゆき蛇行を強めながら移動したり、台風などで気ままに流路を大きく変えていたはずなのです。

第一回で徳川氏江戸入府の時、現在の中川に”荒川”と”利根川”が流れ込んでいたと書きましたが、この広大な湿原の中では、それさえも数年から数十年の流路に過ぎない可能性も高く、下総台地から武蔵野台地までは湿原という名の巨大な河であったという方が正解に近いと考えます。

今のワタクシたちが眺めている江戸川というのは(流路が決められる直前に船の通行のため、一度乾かし掘り下げられたにしても)、湿原を人が乾かし奪い、河に残された領土が流れとして固定されたものに過ぎないと思うのです。

つまり、江戸川は湿原に人々が住み着き、手を加えたことで生まれた河であると^^;

これを「人工河川」と呼ぶか「自然の河川」と捉えるかは、語句の解釈の問題でしか無いと思うのですよね^^;

ちなみに・・・銚子~関宿~行徳の水運ルートは、赤堀川開削後、更に逆川の開削をもって伊奈忠治没後の1665年に開かれます。
そして、この水運ルートが不完全であったことが松戸&流山の繁栄につながるという不思議なめぐり合わせになってゆくのです^^;

江戸川奇譚 おわり^^;

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