といっても、戦国後期以降の天守閣のあるお城は1つもなく、歴史とか興味なければ、基本”ただの丘”ですから、あまり意識されないだろうし注目も浴びないのですが、結構あるのでございますよ^^;
大谷口歴史公園の碑(松戸市webより) |
『小金城趾駅』でお馴染みの【小金城】をはじめ、【根木内城】【前ヶ崎城】【名都借城】と比較的狭い地域に密集してるんですね^^;
で・・・詳細な部分は城マニアの方にお任せするとして^^;
ワタクシの興味としては「あえて何で?ここらあたりに城作った??^^;」ってことになるのでございます^^;
ちょっと脇論から攻めていきますが、小金宿(=小金城の元は一応城下町)の道の配置を見ると、水戸街道が北小金駅前手前でカクンと曲がってるんですよね^^;Wikipedia「小金宿」より |
これは明らかにおかしくて、単に水戸街道の宿場町として発展したのなら、街道の1本道にそってズラッと宿や店などが並ぶのが普通で(後世の考え方で軍事的にクランクにしてるとこもありますが)、カクッと曲がってるってことは、素直に考えれば”本来まっすぐに通ってる方が本道(本土寺参道のほう)で、水戸へ向かう水戸街道は後からの付け足し”って考えるべきなのかなと^^;
じゃ水戸街道が通る前から「まっすぐ小金宿を通っていた道ってなんじゃろ?」ってコトになるのですが、下総の国府であった国府台(市川)と坂東の中心(古河とか久喜・足利)を結ぶ道路だったのだろうなと推測されるわけでございます^^;(後に発展して少しズレて日光東往還)
江戸時代前の話ですから、江戸という都会なんぞは存在もせず、ここらあたりの西側は広大な湿地^^;
湿地に道を開いても、大雨でもあれば一瞬で流れますから、道作るに当たっては出来るだけ台地(の凹凸の少ない縁)を結んで、安定した地面を進ませるわけでございます^^;
つまり、坂東(戦国時代の関東で最も盛んだった地域/埼玉の北側と群馬の南)の中心部であった古河・足利あたりから下総・上総に行きたい場合、関宿あたりを経由して台地を通りながら市川へ下ってくるわけですが、雑に言えば坂川と大堀川(香の海)の存在で、ここらあたりがボトルネックになってるんですよね^^;
小金~流山周辺の城跡位置関係 |
そう!ここに城(基地)作ると攻めるにも守るにも都合が良いぞ!っと^^;(=戦略的重要点)
下総・上総側(千葉氏)から見て、坂東に攻めてゆくときも、ここに城があると補給やら負け戦で逃げ込む時都合がいいし、国府を守る前線基地にもうってつけ!坂東側からみれば、小金あたりを抑えちゃえば、あとは国府台(下総市川)攻め放題って場所が、まさにこの周辺だったわけでございますね^^;
ちなみに・・・最初に挙げた4つの城跡の関係は、【小金城=本城】【根木内城=小金城の前身】【前ヶ崎城=小金城出城】【名都借城=小金城出城】となるそうでございます^^;
意外やお城を作りたくなるほどの重要拠点だったのですね^^;ココらへん^^;
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