ラベル 江戸川 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 江戸川 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年5月26日金曜日

1947年9月19日 江戸川堤防爆破!【カスリーン台風大洪水】

爆破された江戸川土手(利根川上流河川事務所 WEBより)

ワタクシ達が日頃から親しんでいる江戸川の堤防ですが・・・過去に一度、爆破されたことがあったそうでw(*゚o゚*)w

下の航空写真(国土地理院 1947)を見ますと、ちょうど埼玉東京都県境のトコロで堤防が切れておりまして、これが爆破による堤防掘削の跡なんですよね^^;

爆破箇所の位置(国土地理院1947)ランドマークは当ブログで記載

青円の部分の江戸川土手が切れています(同上)
といっても事件事故でなく、災害対応の避けようもない処置としてですが・・・それにしても市街地で爆破で堤防を破るという処置はすさまじい^^;
それをしなきゃいけない緊急性があったわけなんですね。

この対応を行ったのが、昭和22年のカスリーン台風に伴う関東大水害。
江戸川堤防爆破を行ったのは、敗戦による占領中であったためGHQ配下米騎兵第一師団技術中隊100名だったそうでございます。

史上まれにみる大水害であったため様々な記録が残されているのですが、江戸川土手爆破に焦点を絞って時系列に整理しますと・・・

【1947年(昭和22年)】
9月16日 00:20 栗橋周辺で利根川堤防決壊
9月16日中 春日部付近まで洪水到達
9月17日中 松伏付近まで洪水到達
9月18日中 現三郷市全域浸水、桜堤(水元公園外縁道路)まで洪水到達
9月18日中 区部への浸水を避けるため江戸川堤防破壊準備
9月19日 02:20 桜堤決壊、洪水葛飾&江戸川区へ流入
9月19日 03:30~ 江戸川堤防ダイナマイトで18本で爆破、さらに人力削掘も実施
9月20日 08:00 洪水江戸川へ流出へ

はるか上流の栗橋周辺での堤防決壊が、3日後には現三郷市まで到達し、4日目に江戸川堤防爆破に至るわけです。

カスリーン台風での浸水エリア(内閣府 防災情報のページから)

都知事の要請により、米軍がダイナマイト18本を使って堤防爆破を試みるのですが、さすがに江戸川堤防は強固で、最終的には松戸市の千葉農専学生約150名(今の千葉大園芸学部)と消防団員50名がスコップによる人力で堤防を掘削したそうでございます。

利根川上流河川事務所 WEBより

残念なことに堤防破壊準備中に桜堤は決壊し、その後20日間、葛飾・江戸川区も水に浸かってしまったそうですが、この処置がなければさらに浸水期間は長くなってしまったと思われます。

このブログでも触れた利根川東遷・荒川西遷(→江戸川奇譚)の時代から現代まで、
実はこのエリアで一番治水が難しいのが江戸川と中川に挟まれたエリアのようでして、
地下の大宮殿と言われる中川放水路を始めとして、現在も様々な努力が続けられているのですよね。


にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 松戸情報へ にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 流山情報へ にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログへ


<スポンサーリンク>

2017年5月16日火曜日

松戸の17世紀からあった村が江戸川に消えた【外河原村】

『ダムの底に沈んだ村』という話を読んだり聞いたりして、故郷が開発のために犠牲となって消えてしまうとはいかばかりか・・・と思いを馳せたりするのですが、それらの多くは山間部の集落で、まさか松戸でそんなことはあるまいと想像だにしなかったワタクシ・・・

ところが松戸にも江戸川に消えた村があったのですよ!
その名は『外河原村[とがはらむら]』!!

今の松戸のどこに、そんな運命にあった村があったかといいますと、現在の場所でいえば三郷市の江戸川河川敷<サンケイスポーツセンター>あたりから松戸市側の<まこも池緑地>付近あたりまでだそうでございます。
現在でも<まこも池緑地>あたりは『外河原[そとがわら]』という地名ですが、これが現在”そこに外河原村があった”という唯一に近い痕跡。

『外河原村』は、いつの頃からあった村かは完全に調べきれてないのですが、少なくとも元禄絵図(1702年)には、その名前が見られますのでそれ以前には成立していた集落と考えます。
元禄図を見ると新田を除けば、北に現流山市の”木村”、東に”馬橋村”南に”古ケ崎村”の江戸川沿いの広やかな村落だったんでしょうね^^;

国立電子文書書館 デジタルイアーカイブから

はっきりその村域が確認できるのは明治初期の地図でして、今の感覚でいうと三郷側に近い江戸川の中洲と現在も残る<まこも池緑地>周辺が、その村域だったようでございます。

外河原村の名前が示すように、村の外から見た視点として江戸川自然堤防の外にある村であり(このような条件の悪いとこに村が出来た理由がありそう)、元禄図によると周囲の村がだいたい100石前後の取れ高があるのに、外河原村はわずか11石!
水害には相当悩まされた場所だったんだろうと考えられるのです。

明治迅速地図より
位置関係をわかりやすくするため現在ランドマーク記入(同上)

この『外河原村』、1899年(明治22年)の町村制施行で馬橋村に含まれることになるのですが、運命が変わるのはその後、

明治の江戸川河川改修で外河原村ほぼ全域が、河川敷と江戸川本流の土地として接収され、
すべてが取り壊され、川と土手にされてしまうのです。
外河原村が消えた後の地図 明治期(出典同上)


また、この時に江戸川本流を県境としたため、三郷側河川敷となった土地も埼玉県に移ったようでございまして、松戸側にのこったのは現在の<まこも池緑地周辺>のみとなったようでございます。

ほんとにね・・・いくら治水とみんなの利益の為とはいえ、
先祖代々守ってきた・・・生まれ育った村が跡形もなく壊されて、川底に沈められるってのは想像を絶する悲しみだったんだろうなと・・・・
まさか松戸でこんなことがというお話しでした^^;


最後に外河原村のその後がわかる地図のGifアニメなんぞを載せておきます。


<スポンサーリンク>

2017年5月9日火曜日

江戸川土手あたりでClover祭り開催中^^;【3色あるよ!】

え~・・・・祭りと書きましたが別に縁日やってるわけではございませんで・・・一気に花が咲いてますよって話なんで、あんず飴とか期待しちゃった人はごめんなさい^^;

んでもって・・・・^^;
クローバーって3色身近に見れるんですね^^;

一番ポピュラーなのは、白いクローバー(シロツメグサ)、次にみかけるのが赤いクローバー(ムラサキツメグサ)^^;
このあたりまでは、花もそこそこデカイし目につきやすいので皆さん”今更何言ってるんだコイツ”状態だと思われますが^^;

実は黄色いのもあって・・・・ドーン!

黄色いクローバー(コメツブツメグサ)!

”そんなの見たこと無いぞ!”って思う方も多いかもしれませんが(ワタクシもこの歳まで気にしたこともなかった)、印象が薄いのも当然で、シロ&ムラサキが指先ぐらいの花を咲かせるのに対して、黄色だけは名前の通り5mm程度のちっちゃい花^^;

江戸川土手とかで”なんかこのあたりだけ黄色くて細かいのがいっぱい♡”と思ってスマホのカメラ突っ込んで撮ったら、コレでして、調べてみたらクローバーの仲間だとわかったわけでございます^^;

こっちはGooglePhotoが勝手に加工してくれたやつ^^;

ちなみにね・・・クローバーって世界最大のハチミツの元となる花で、葉は食べられて、花穂は薬草(強壮剤、痛風の体質改善、解熱・鎮痛効果)にもなるという”どんだけ役立つの!”って思う植物のグループなんだそうでございます^^;

というわけで・・・(←小ネタなので強引にまとめに入る^^;)
たまには知らない花を見つけてみたり、目線以外の場所にスマホのカメラ突っ込んでみますと新しい世界を発見できるかもです^^;


にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 松戸情報へ にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 流山情報へ



<スポンサーリンク>

2017年5月2日火曜日

江戸川は人と出会い生まれる【江戸川奇譚④】

江戸時代の江戸川を描いた浮世絵
船橋市webより http://www.city.funabashi.lg.jp/shisetsu/toshokankominkan/0001/0005/0002/fukeiga6.html

"この河は船が遡れるかの?"

前回、このセリフで3回目を終わらせましたが、この思いこそが現代の江戸川を性格づけるものです。

もう一度、つらつらと書いてきたこの記事の1~3回を振り返れば、江戸開府当時「伊奈忠次」は、江戸城の東側に下総台地まで広がる湿原を使える土地とするため、その中心に流れる大河を分散させ東と西に分けることを思い立ちます(荒川西遷&利根川東遷)。

そして、江戸幕府が開かれ、江戸が天下の中心になることで、その河に『水運』という要素が強く加わり、利根川は東の銚子より関宿を経て東京湾に繋がる一大水路の役割を持たせられたわけでございます。

ところが・・・東京湾側の新しい利根川の流路となった太日川(庄内川)は、元が中規模河川の渡良瀬川下流であったため、底が浅く州やせせらぎのある広がった流れ・・・利根川の水を落とし込んでも荷物を積んだ船が年を通じて行き交う水路には、そのままではならなかったのでしょう。

父忠次の衣鉢を継いだ「伊奈忠治」は、利根川の太日川落とし込み直後から、まず関宿~流山市北部間の台地を貫く河川の改修に取り掛かったと思われます。

平野に流れ込み、自由に広がりうねうねと流れる太日川(庄内川)の流れを捨て、台地を穿ち、なるべくまっすぐに高低差を均し船の通過を可能とする工事です。
この工事は、恐らく太日川への利根川落とし込み直後から測量や村々との調整が始まったと思われますが、具体的な工事は1635年に始まり、1641年に開通したそうでございます。
現在の野田市周辺の台地を貫く江戸川の流路

では・・・ワタクシたちが現在眺めている流山・松戸あたりの江戸川の流路はどうだったのでしょう?果たして人工河川なのでしょうか?^^;

もう一度、現在の地図ですが関東平野南部の土地の高低差が分かる地図を眺めてみますと海抜3m程度の水色の部分が、北は松伏から東京湾まで延々と広がっています。

荒川放水路周辺(葛飾・江東・江戸川区)の海抜0m以下の地域は、大正~昭和期の地下水の組み上げで出来たものですが、それ以外の土地の高さは江戸初期とそれほど変わらないと思います。

そうなんです!水色の土地は全て人の手が加わるまで河の領域だった土地なのですよね^^;

北関東の山々から流れ出た河々は、関東平野の北部を流れ、この湿地帯にぶつかった時、大きく広がり、時に湿地と一体化し、時にうねうねと蛇行しながら、東京湾にゆったり流れ込んでいたのです。

今のイメージで捉えるこの地域の河というものがあっても、それは非常に仮初めの姿で、流路が決まってる時ほど、そこに河の運ぶ土砂がゆっくりたまってゆき蛇行を強めながら移動したり、台風などで気ままに流路を大きく変えていたはずなのです。

第一回で徳川氏江戸入府の時、現在の中川に”荒川”と”利根川”が流れ込んでいたと書きましたが、この広大な湿原の中では、それさえも数年から数十年の流路に過ぎない可能性も高く、下総台地から武蔵野台地までは湿原という名の巨大な河であったという方が正解に近いと考えます。

今のワタクシたちが眺めている江戸川というのは(流路が決められる直前に船の通行のため、一度乾かし掘り下げられたにしても)、湿原を人が乾かし奪い、河に残された領土が流れとして固定されたものに過ぎないと思うのです。

つまり、江戸川は湿原に人々が住み着き、手を加えたことで生まれた河であると^^;

これを「人工河川」と呼ぶか「自然の河川」と捉えるかは、語句の解釈の問題でしか無いと思うのですよね^^;

ちなみに・・・銚子~関宿~行徳の水運ルートは、赤堀川開削後、更に逆川の開削をもって伊奈忠治没後の1665年に開かれます。
そして、この水運ルートが不完全であったことが松戸&流山の繁栄につながるという不思議なめぐり合わせになってゆくのです^^;

江戸川奇譚 おわり^^;

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 松戸情報へ にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 流山情報へ にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 柏情報へ



<スポンサーリンク>

2017年4月29日土曜日

この河は船が遡れるかの?【江戸川奇譚③】

現在の江戸川(流山市 加付近)
前回までのお話は、関八州を得た徳川家が、伊奈忠次に関東の治水を命じ、利根川荒川の分割を構想。更に徳川家が幕府となり江戸が天下の中心となることで利根川東遷の意義に東日本からの物流の目的が加わり・・・・というトコロまででしたが^^;

この記事を書いてると、やたら”付け替え”だの”落とし込み”って言葉が出てまいります^^;

これはこの時代の土木の技術のせいでして、今だったら浚渫(水の底を掘って深くする)というやり方もあるんですが、これがこの時代は難しい。
人件費はタダみたいなものなんですが、全て人力なので水の中をいじくることはあまりしないのですよね。

既存の流れを深く掘り直したりするなら(やってるそばから、水が動いて埋まってゆくので)、それよりも水のないところをワッセワッセと掘って(露天掘り)”付け替えた方が楽”という発想だと思われます。

さて・・・幕府が開府されて落ち着いてくると
関東入府から、幕府開府にわたって考案された忠次の構想がいよいよ実を結び始めます。

この間に関東代官頭は息子”忠治”に引き継がれ(実際は3代目)ているのですが、まさに八面六臂!主な業績だけでも・・・・
【伊奈忠次】
1590年~備前検知(伊豆・武蔵・相模など)
1592年 文禄・慶長の役では大軍を動かすための小荷駄による兵粮の輸送
1594年 千住橋架橋
1596年~ 備前堤築堤
1600年 関ヶ原小荷駄奉行。
1610年 没
【伊奈忠治】
1621年 新川通開通、権現堂川拡幅。太日川利根川の下流に
1621年 赤堀川開削開始
1628年 中山道移設
1629年 荒川西遷
1629年 鬼怒川・小貝川分流
1630年 新綾瀬川開削
1635年 赤堀川開削失敗、再開削へ。
1641年 江戸川開削
1653年 没
【忠治以降】
1654年 赤堀川開通、利根川東遷(一次完了)
1665年 逆川開削(銚子~関宿~行徳ルート開かれる)
http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo00031.html から

測量をし、設計絵図を描き、関係する領主や村々を説得し、人足や工事資材の手配をし・・・もちろん下僚を使ってやって入るんでしょうが、よくもまぁこれだけのプロジェクトを平行してやったものだなと^^;


で・・・本題に戻りまして・・・ワタクシたちの今の江戸川が今の姿になるコトの起こりが・・・
1621年、新川通が開削され太日川(庄内川)が利根川の下流になった時のことだと思われます。
推測するに、付替えが終わり利根川の下流となった太日川(庄内川)を伊奈忠治を含む幕閣が巡視に来たと思われます^^;

そして、その流れを見て恐らくこういう発言があったのではないかと・・・

この河は、四季を通じて船が遡れるかの?
これこそが、今の江戸川誕生のきっかけだったと思われるのです^^;


にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 松戸情報へ にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 流山情報へ にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 柏情報へ


<スポンサーリンク>

2017年4月26日水曜日

江戸川で物流をも変えよ【江戸川奇譚②】

前回、徳川家が関八州の治所として江戸を開府し、その東側の水の害を取り除くため命を受けた伊奈忠次が【荒川西遷】【利根川東遷】を思いついたであろうというとこまで書いたのですが・・・

では、この文の本来の主役^^;
江戸川はその頃どんな状態であったろうかといいますと

渡良瀬川の下流として「太日川(ふといがわ)もしくは、庄内川」という名前で既に(場所によって今より少し西側を)流れていたのですよね^^;
大きな支流といえば、茨城方面から流れてくる思川だけですし、下総国・武蔵国の国境にもならなかったわけですから、それほど大きな川でなく、普段は所々に州やせせらぎのある中規模の川だったと思われます。

現在の渡良瀬川(足利市周辺)

関八州時代の【荒川西遷】【利根川東遷】発想というのは、いわば今の中川に集中する大河(荒川・利根川)を分散させ江戸の東側をなんとかしよう(無論それ以外にも中流域の灌漑とか治水もあるわけですが)というのが狙いですから、実は利根川東遷というのは当初は、この太日川に利根川を落とし込むつもりだったと思われます(実際に一時期はこのルートを利根川が流れます)

ところがところが・・・時代の波は大きくうねり
徳川家は、武家の棟梁に押し上げられ幕府を開府。
江戸は天下の中心とあいなることとなりました。

こうなると徳川家の視点も関八州から、全国を睨むものに変わります。江戸の都市計画も天下の治所としての色彩を帯びてくるわけですね^^;

国土交通省 関東整備局 荒川上流事務所 WEBから http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo00031.html

【荒川西遷】プロジェクトの方は、現在の行田あたりで荒川を入間川(現在の隅田川)に落とし込む目論見でしたので城下下町の水流も増え江戸の都市計画にもかなってますので、たぶん着々と準備が進んだであろうと・・・。

反面、【利根川東遷】もからみ、問題視されたのが東北太平洋沿岸からの物資輸送です。
この当時の沿岸航法では、東北方面から房総半島をグルリと回って今の東京湾に入る航路が、潮の関係で危険とされてまして、石巻あたりから出た船は那珂湊で行き止まり、あとは江戸まで陸送していたらしいのですが、天下の治所となるとそうもいかない^^;

陸送で特に困るのが、かさばる米と材木(筏にして運んだりもしていた)でして、江戸がどんどん発展して需要は無尽蔵なのに陸送ではまったく間に合わない・・・・

幕府開府後、関東代官頭に命じられた伊奈忠次を始めとして幕閣こぞって絵図を睨み頭を悩ませたと思われます。
そして目につけたのが、銚子から関宿まで延々と繋がる常陸川でつながった湿地帯。
「関宿まで利根川を繋げ銚子に落とし込み、太日川を通じ江戸に運び込むのは如何であろう?」とまぁ・・・いつかは誰かが思いつく発想ですね^^;

こうして【利根川東遷】は、流れを東にずらすどころか河口を東京湾から銚子に変える超ビックプロジェクトになったわけでございます。

またまた次回へ続きます^^;

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 松戸情報へ にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 流山情報へ にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 柏情報へ

<スポンサーリンク>

2017年4月25日火曜日

関東千年をデザインした男【江戸川奇譚①】

東葛エリアに住んでおりまして、地元をテキトーにブラブラしながら、思いついたいろんな疑問を調べておりますと必ずブチ当たるのが『江戸川とはどんな川か?』という疑問でございます。
現在の関宿 利根川と江戸川の分流点

今の姿だけ見てしまえば”利根川から分流し東京湾に注ぐ川”ってコトになるんですが、そもそも利根川自体が江戸初期に大きく姿を替えており(利根川東遷)それに付随して江戸川もその有り様を大きく替えてきてるのですよね^^;

いろんな説を調べてみますと
”江戸川は人工河川説”も結構ございまして

結構な人の興味を掻き立て、いろいろ書かれている川なんですよね。

ということで今回から数回に分けて、江戸川の成り立ちってモノを、ワタクシなりに探ってみようかなと^^;・・・尚、一応裏付けを取りつつ書き進めてはゆきますが、はるか昔の出来事でございますから、真偽ははるか時代の向こう・・・”そういう事もあったかもね”ぐらいで受け止めていただければ幸いでございます^^;

【コトの起こりは、江戸開府2大プロジェクトから?!】

関東農水局WEBから http://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/tamen/03_1.html
コトの起こりは、江戸幕府が開かれる以前、徳川氏の江戸入府にはじまります。
東海五カ国と引き換えに、関八州に移され、居城を江戸と定めた徳川氏。
武蔵野台地の東の端に建てられた江戸城に入るのですが、広域で見ると城の東側(武蔵国と下総国の境)がなんとも具合が悪い^^;

江戸城のある武蔵野台地を西側として、ワタクシたちが住んでいる市川・松戸・流山の下総台地まで延々と湿地帯が広がってるわけですな^^;
なにせ、その湿地帯を延々と苦労して歩いて、やっと茨城に入ると乾いた地面があるので思わず”常に陸がある”常陸国(ひたちのくに)って名前をつけたぐらいびっちょびちょ。

古い名前を書き連ねるとわかりづらいんで、今の名前で書いてゆきますが、利根川と荒川が今の吉川あたりで合流(現在の中川)し、荒川・足立・葛飾・江戸川・江東区あたりを蛇がうねるようにグズグズダラダラ流れてまして、川以外もそのほとんどは一面の脛まで泥に浸かる葦原、ほんの少しの乾いた部分(台地)に寒村と漁村がポツンポツンとあるとんでもない場所だったんですね。

今も残るウネウネ中川の跡
北条氏支配の関東の片田舎だった頃はそれでよかったんですが、今回は関八州の治所となる大切な地域「あの地の水を抜き、美田に仕立て、水の害を取り除け!」とかなんとかきっと命令し、それを実現しなきゃいけなくなったのが伊奈忠次という内治派の家来だったらしいのでございます。

ダンプカーもブルトーザーもない時代。
命じられた伊那氏は最初は堤を高くし、灌漑を整備することでなんとかしようと考えたと思います(手間もそれほどかかりませんしね^^;)。
でもね・・・・きっと土地の古老の話やいろんな記録を漁るうちに、なにせ関東の2大大河が合わさって流れてるところだから、台風とかで増水しようものなら多少の堤なんぞひとたまりもなく、それじゃどうしようもないって考えに至るわけです。


そして改めて、解決のヒントを求めて関東全域を歩くうちに、関東の川のある特徴に気づいたんじゃないかと・・・・

すなわち・・・・関東の川って山から流れでた後、中流の熊谷~古河ラインで一回落ち着いて、再びそこから東京湾に向かって流れ出すっていう特徴があるのですよね。

ならば・・・下流の堤を整備して水を無理やり治めるのでなく、中流で流れを替えてしまい中川に落とし込むことを廃せば良いのではないかと。

こうして構想されたのが、
2大大河を西と東に分けて落とし込む
【利根川東遷】【荒川西遷】の
2大ビッグプロジェクトだったわけで
ございますな。



にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 松戸情報へ にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 流山情報へ にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 柏情報へ

<スポンサーリンク>

2017年4月18日火曜日

流山&松戸 繁栄のヒミツ!【通行止めで得した町】

流山や松戸の”町の歩み”の説明を見ますと、必ず出てくるのが「河岸が設けられ、水運の要所として栄えました」という記述^^;

江戸川・利根川 水運ルート


こだわらなきゃ”ふ~ん”って読み飛ばすんですが、フトそこに引っかかると、江戸川に荷物を積んだ船がそれなりに通行してたとしても、それらは基本通り過ぎるだけで、茶店や旅籠を作ったとしても「ここで一休みするべ!」って船頭さんたちが寄るだけ・・・

それじゃ今の高速のPAと役割は変わらないわけで・・・
そんなことでそんな発展するか?
って疑問にぶち当たります^^;


突き詰めて言えば、河岸として発展するためには【荷物の積み下ろしをする必要】が、その場所にないとダメで、積み下ろしをするから人手も必要だし、一時的に保管する倉庫も必要、そこから乗せようとする荷物も集まってきて、始めて河岸として栄えるわけなんですよね^^;

流山や松戸は、東日本太平洋側沿いの物資(銚子の鮮魚とかも)が、銚子から利根川をさかのぼって関宿を経由し、行徳に至る川運のルート沿いにありましたって説明されるんですが、実はココに秘密が・・・

このルート比較的簡単に
事実上通行止め
になってたらしいのです

川といっても水運で考えれば『船の通れる川』と『船の通れない(浅い)川』に分けられます。
川っていうのは季節や天候で水量が大きく変わりますから、水が減っちゃうと船が通れない所が出来ちゃうらしいのですよ。

利根川・江戸川ルートで言うとその代表格が鬼怒川の合流域(今の常磐道とかTXが渡ってるあたり)だったらしく、鬼怒川が運んできた砂や泥がここにたまっていて、ちょっとした渇水で通行止め(季節や天候で浅くなって通れなくなる)になってたそうで^^;・・・

んでもって、いつの時代でも急ぎの荷物(船が通れる水位回復まで待てない)ってものはあるもので「こうなりゃ積み替えて陸上通過してでも運ぶべし!」って考えになり、柏の布施(現・布勢)から江戸川目指して陸上通った荷物が再び川舟に積み込まれるのが流山、もうちょっと手前の木下(布佐)で陸揚げして江戸川に運び込まれた場所が松戸ってことになるらしいのでございます^^;



なんでこの2ルートかっていいますと、その間には水運に適さない手賀沼がベロンって居座ってまして、手賀沼の西側を通るか、東側を通るかの違いだったらしいのですよね^^;
(ちなみに江戸川の水運諦めて、木下から行徳までの陸路が木下街道だそうです)

ちなみにこの銚子~関宿~行徳ルート
順調でも3日かかったそうです^^;
鮮魚に関しては、時間短縮で一部陸上ルートもとられてたとか^^;


にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 流山情報へ
にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 松戸情報へ



<スポンサーリンク>

2017年4月12日水曜日

流山橋にまつわる3つの”ホホォ!”【橋に歴史あり!】

国土地理院航空写真をGIFアニメ化(1963・1975・1980・1990・2017)
http://user.numazu-ct.ac.jp/~tsato/webmap/map/gmap.html?data=history

三郷方面に遊びに行ったりする時に渡ったり、江戸川土手をブラブラしながら眺めたり、何かとお世話になってる流山橋^^;
渋滞の名所でなんとかなんのかぁと思ったり、ちょっと上流に初代の橋脚が残ってたり、興味や好奇心を刺激される場所なんですよね。

今回は、そんな流山橋の3つの【ホホォ!】と思うポイントをつらつらと^^;
”しっとるわぃ!”とか”あたりまえじゃん”と思われる方ご勘弁^^;


【ホホォ!その1】
2代目 流山橋は二度生まれた!

クルマとかで通っているとあまり意識しないのですがこの流山橋【車道】と【歩道】が分離して架けられているんですよね。

2代目の流山橋が開通したのが1965年。この時は歩道のない(狭い路肩を人や自転車が渡る)橋として開通したようで、そのころ歩行者として利用していた人はさぞ怖かっただろうなと^^;
歩道専用の橋が、追加開通したのはよくわからないのですが、1975年の航空写真になく、1980年のにはありますのでこの間^^;つまり2代目 流山橋は2度生まれたってことにあいなります^^;
手前が歩行者専用橋 wikipedia ”流山橋”より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E5%B1%B1%E6%A9%8B


【ホホォ!その2】
初代 流山橋(土手も)は低かった!

今でこそ立派な土手が整備されて河川敷から見ると見上げるばかりの流山橋ですが、その上流の初代の橋脚をみると「あれっ??」。
河川敷から見ると目線より下に橋脚のてっぺんが見えるんですよね。

つまりこれは橋脚の上にあと2mぐらいは構造物があったとしても、1960年代の江戸川土手改修までは、土手が(今の高さを知ってる我々の感覚では)恐ろしく低かったということ^^;

今でも台風の後なんか三郷側のグラウンドが冠水してますが、あの高さまで水が上がってくるだけでも低い土手だと相当ドキドキしたんじゃないかと思われます^^;

初代流山橋 橋脚 wikipedia ”流山橋”より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E5%B1%B1%E6%A9%8B

【ホホォ!その3】
何故初代 流山橋橋脚は残ったか?

これはもう有名な話らしいのですが、初代流山橋が架かったのは1935年(昭和10年)。
その後”昭和の戦争降伏の時に柏の飛行場の兵士たちが進駐軍が来る前に橋から武器や爆弾を投棄した”という言い伝えが残っていたそうで、それが理由で2代目橋が開通、初代の橋を撤去する時、橋脚を残したようです。

この話には後日談があって、2004年に自衛隊が調査した所、爆弾・武器弾薬が相当数出てきて翌年引き上げたらしいです^^;

回収されたクラスター爆弾2個、15キロコンクリート爆弾7個、機関銃28丁、銃剣45丁、機関銃弾・小銃弾計約1万発(「こちらホワイトロック/本館」様から http://sazaepc-tasuke.seesaa.net/article/129910206.html)



うん^^個人的にはすっごく面白い!
旧橋脚も近い将来、爆弾問題もなくなって撤去されれのでしょうが
80年以上あそこにあると思うと1本ぐらい残してほしい気もしたりして^^;

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 流山情報へ




<スポンサーリンク>